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2017年7月7日金曜日

水彩絵の具

絵が下手くそで、十代の頃はいつも描きながら泣いていた。頭の中に絵はあるのに、未熟な手でそれを描くことができない。

思い切って色数を絞ったり、わざと変な点描をしたり、鮮やかなポスターカラーや透明水彩やアクリル絵の具を使ってみても、全くうまくいかず、本当に絵の上に突っ伏して泣いてばかり。

だって、たかが生まれて十年余で、自分には「才能がない」なんてことを納得するのは、とても耐えがたいことでしょう? ようやく諦めることができたのは、大学生になって本気で修行してきた友人に出会ってから。「あんたの線は間違ってる」って私のデッサンに消しゴムをかける友人の正しさに、あっけらかんと笑えたとき。もう、自分は絵描きにはなれないんだからいいんだ、と、やっと安心できたような。

絵描きになろうとしてなれなかった父が先日死んだ。

瀕死の父の枕元で、とくにやることもないので、その友人(私があちら側にいることを教えてくれて、父がそちら側にいようとしたことに敬意を持ってくれた人)が父に贈ってくれたスケッチブックと色鉛筆を使って、無駄にいい加減な写実ふうの絵を描いていた。あじさいの、青とピンクのゆらゆらしたグラデーション。ほら、お父さん、6月だしさ、あじさい描いてみた。どうかな? ちょっと輪郭線が強すぎるかな、この線は変かなあ。ここ、影になるはずなのに、おかしいよね、私の明暗は。眼がダメなんだよね。うーん。

返事はない。小学校で描く絵にも容赦ない批評を加えていた父は、老い病んでもう意識もなく、もう私の絵を叱ることもなかった。

ぶひぶひと鼻水すすって、ただ下手くそな絵を描く。

他の家族も知らないところの、私と父の最後の時間。穏やかで、平凡な、入口も出口もないような。

いつになったら絵がうまくなるんだろ? ひょっとして、まだそんなこと思って生きていくのかな?

ずーっと下手くそでもいいけど。こんな機会でもあると、ただ絵を描いているだけで楽しかった昔のこと、少しでも覚えていられるだろうから、きっと。

羽化時の逆光でうまく写真撮れなかった

2016年9月6日火曜日

百日紅

週間天気予報は外れっぱなしで、朝にニュースをつけると、連日の新しい見通しに面食らう毎日です。晴れるの? 暑いの? 豪雨なの?

台風の行方次第なのかしら、などと仕方なく納得するしかないようだから、洗濯の予定も、お昼ご飯の予定も、また、いちから組み直す。

真昼にご飯の食材を買いに自転車で出かけたら、青空の隙間に涼しい風が吹いて、台風のせいで終わったと思っていた合唱には、つくつく法師が加わっているし。

そうだこれはたぶん、夏の終わりだ。

子どものころに通う小学校のプールは、屋外にあった。くすんだ針葉樹の並木が、塀の代わりに取り囲む。だから水面には枯葉だの虫だのが落ちて、水の泡を縁取りにして、みっともなく浮かんでいた。

水中にもぐって、無理矢理に目を開けて青空を見上げると、ゆらゆら横切っていく枯葉。蝉の声はその時、止めた呼吸と一緒に息をひそめる。プールの水のレンズ越しから空の色合いの変化に気づいて、夏休みが終わる予感に驚く子ども。

泳いで濡れた重い髪の毛を持て余して、耳に残った水が音をくぐもらせる。足の指が痛いビーチサンダルに気味悪くまとわりつく校庭の土、赤いリンゴ模様の透明なバッグの中で重くなった水着とタオル。

さるすべりの紅い花、まるで永遠に咲いているかに思われたのに、はらはらと散り、乾いた地面の上で風に吹き寄せられ、歩道の縁に積もる。

同じ夏は二度となくても、歳だけを重ねて、いつかすべて忘れてしまうはずの景色だけが、目を瞑った暗がりの彼方へと。もう幾度目の9月、これから何度出会う9月か。




ぶひ。

2016年4月21日木曜日

The land where we are living

以下、たぶん16歳の日記(5月3日)より。

「サディスティック・ミカ・バンド ファーストアルバム」

キラキラ星の彼方には……

一口食べれば
目が醒めるという
果物があるとか

なぜか神様は あらゆるものを水にして流してしまうという化け物をそこに置いて
魔法の果物を守らせているという
神様は 人間たちが長い夢から醒めるのを 嫌われているのだった

土星の輪のあたりで でっちあげられた この伝説はいつしか人々に忘れられた

魔法の果物は 毎年しずかに花を咲かせて しずかにその実を腐らせている
化け物は 今日も木の下で眠りこけては 馬鹿な人間が訪れるのを待っていた

図1ですよ
「個人的な話で恐縮ですが、わたくし、幼稚園のころ、どのように世界を認識していたかといいますと、それはパターン化によるものの区別だったのですね。つまり、おうちの絵を描きなさいというと、正方形に三角が乗っかり、右に煙突が付いていて、赤い波状の瓦を描き、十文字に桟の入った窓を描いてドアを付け、横にはギザギザのチューリップを描く、といった具合です(図1)。

このようにして、自分の分かるものは大抵パターン化して認識していたように思います。青い空、女の子→リボン、ママ→エプロン、犬は→ワンワン、マンガに出てくる子ども→いたずらっ子でよくテストで0点をとる、お皿を洗うと→1枚は割る、ピアノ→ねこふんじゃった、などと、自分の手の届かない世界までが、テレビマンガや童話、そしてそういう各種情報が飛び交う「幼稚園生の会話」によって、自分のものとなっていたわけです。ただし、それは、あくまで薄っぺらで、そのような「形式」としかなり得ない世界としての所有です。

力尽きています。
と、ここで本題に戻るわけですが、そのようなパターン化した認識による、夢から醒めた人間の描写です。前後不覚の長い夢からふいに目が醒めると、人はどーするのかなー、と、幼稚園生のわたくしが思います。すると、そこで考えられる情景は、ゆっくり目を開いて、あたりを見回し、「ここはどこだろう」とつぶやく。あたりがパターンではないでしょうか。今でもしつこくパターン化した世界の追求をしている、子ども向けマンガの世界では、実に便利な情景描写の方法だと、わたくしは思うのですが。」

「ここは、どこだ?」
ゆっくり目を開くと、彼はつぶやいた。
ぼんやりと見えてきた景色の中に、それに答えてくれるような人はいなかった。やがてもっとはっきり見えてきても、そこがどこなのか彼にはますますわからなかった。大きな、奇妙な形の木の下には、牛のようなネコのような動物が眠っていた。ささくれたむらさき色の地面と、にぶい金色の空がつづいている。

◆◇◆

疲れたけものの眠りを掻い潜って走れ
その木を見上げることなく むらさきの地面を蹴って
空にも似た壁を破りながら 誰もいない荒野の果てを笑って

キラキラ星の彼方さえ 背中の向こうに消えるころ
神様の手を借りず目覚めた世界が始まる場所で
大あくびして縄跳びでもしよう

金色の空は火星の影の中
それが夕焼けか朝焼けか分からなくても
空に開いた穴から吹いてくる風を深呼吸すればいいから

That is the land where we are livingかもしれなくて

◆◇◆

(こんな感じが、48歳の考えた結び)。









2015年11月26日木曜日

「やぎさんゆうびん」による変奏曲

(1990年「とげとげふとん」より再録)

ある日、「くろやぎさん」のもとへ、一通の手紙が届いた。

ある日といっても、それは「くろやぎさん」にとって、物心のついた頃から欠けることなく続いた際限のない同じ日々のなかの一日にすぎない。「くろやぎさん」は、毎日毎日、手紙を受け取っていたのだから。

「くろやぎさん」は、はじめからそれが誰からの手紙か分かっていた。それは「しろやぎさん」からのもので、自分はその文面を決して読むこともなく、食べてしまうことになっている。そしてまた、あの繰り返し過ぎてもはや儀式のようになってしまったお返事を、もう一度書くのだ。

もう、たくさんだ。手紙を食べるのなんて、あまりいい趣味じゃないし、俺は、紙を喰って、うまいと感じたことなんてないぞ。本当は、吉野家の牛丼が食べたいんだ。
「くろやぎさん」は、疲れきって憂鬱な面持ちで手紙の封を開いた。初めて、封筒から便箋を取り出し、充血した目をくっつけて、「しろやぎさん」からの手紙を読んだ。

手紙には、何も書かれていなかった。
それはただの真っ白な紙だった。

「くろやぎさん」は、全身を硬くして怒った。汗が流れた。真っ白な手紙を丸めて捨ててしまおうと両手に握って、気が付いた。
紙の裏には、「くろやぎさん」の大好きな、イチゴジャムが塗ってあった。

イチゴ味の朝食を済ませて、「くろやぎさん」はいつもの日課どおり、「しろやぎさん」にお返事を書いた。
「くろやぎさん」は、便箋に言葉を記すことをやめた。言葉の代わりに、「しろやぎさん」の好物のピーナツバターをたくさん塗った手紙を持って、「くろやぎさん」は晴れ晴れとした表情で、ポストに歩いて行った。

西新宿にて
(15年も前に書いたものを、こうして読み返すことができるくらいには恥知らずです。いろいろと記録したいことが他にありつつも、ひょんなことから思い出して、そういえば今の気持ちに添うような気がして再録しました。当時この文章を読んだ人は十数人程度だと思うけど、今回もそんな感じでしょう。)


2014年12月17日水曜日

ラッパの音が聞こえたら

角に丸味を帯びた箱の中に箱があり
外側の箱は青と金のタイル貼り
内側の箱は黒漆に螺鈿細工でスミレの模様
箱から鹿のような角が生えていた形跡が残っているが
中には瀕死の蛤がただひとつ、塩水を吐いていた

中古車のバッテリーを間に合わせにつないでみると
タイルの位置がわずかに移動し
隙間から深い鍵穴が現れる
真鍮の鍵を持っている場合は、差し込めばよいのだが
仮にうまく適合した場合にも
淡い桃色した蛤の命を救うことは、もう間に合わないかもしれない

死んだ蛤では潮汁にも危ないし
いまさら波打ち際の砂をなつかしんだとしても

どこからかラッパの音でも聞こえてこないか
無理矢理にそれを合図にして
この箱は汽水域になっている変な河口の辺りに投げ捨ててしまおう

蛤の一族には申し訳ない
しかし一族のほとんどはバター焼きなどにもなって好評であるということで
とくに歴史の改竄には当たらないと
遠縁に当たるアンモナイトが許してくれたとか
それはまったくの嘘だとか、典拠も頼る意気地ないくせに
頼りなく適当な両論併記しておく

渋谷の冬空


2014年10月1日水曜日

6頭立ての葦毛の馬車で、山を越えて。

子どものころ、確か伊東屋で買ったんだと思うが、紙細工のおもちゃで遊んでいた時期がある。切り抜いて、半立体に組み立てると、お祭りのシーンが出来上がるというおもちゃ。赤いリンゴや黄色いリンゴが山盛りの木の樽を並べて、丸太の柵を組んで、白黒のブタさんや茶色いニワトリさんを配置する。クラシックな服装をしたたくさんの人もいて、いろいろとレイアウトしてお祭りごっこをして遊んでいた。
ローラ・インガルス・ワイルダーの本をすべて読みふけっていた小学生でもあったし、「アメリカの田舎のお祭り」はとても楽しそうに思えた。チャーリー・ブラウンとペパミント・パティも、可愛らしいカーニバルでボーリングのピンを倒したり、わたあめを食べたりしていたよね。

大人になって、それがどうやらカウンティフェアという伝統らしく、大きく育てたカボチャや、丸々育てたブタさんなんかを農家の人が自慢する「村の品評会」で、レモネードを飲んでダンスをするようなお祭りであると、何かの本で知った。
マーク・トウェインのように、作家が各地に巡業して朗読会をすることがあったり、巡回遊園地やサーカスが田舎町にやって来たり。ワイルドランドな合衆国の庶民文化の形成に、そういう類のお祭りなどなどが大きく寄与しているとか何とか、たぶんそういう話。

(※映像はイメージです)

◆◇◆

激安チケットが取れたから……と友人に誘われて、強行軍でLAに遊びに行くことになった。
ユニバーサルスタジオも、ブロードウェイもとくに興味ないし……ということで、友人は海岸線のドライブを計画。旅程のうち1日は私が計画立案を担当することになり、LAカウンティフェアを提案申し上げたわけです。ブタさんのレースがあるという宣伝文句に興奮。
つまりはかつて夢みたあのお祭りが、そこにある!と。

LAは私も友人も初めてで、そのポモナという田舎町が宿を取るLAダウンタウンからどのくらい離れてるかも、感覚的によく把握できない。とりあえず50 kmくらいか……公共交通機関を調べたが、平日には電車は止まるのかどうか覚束ないし、だいたいそんな長距離移動をダサい観光客が安全にこなせるのか? ついでに根本的なことを言えば、白人の農家の人とかが客層の主流だったら、アジア人のわれわれは肩身が狭い思いをするのではないか? などなどと、不安は尽きない。
結局ホテルのコンシェルジュさんに聞いても、「えー、ポモナ行くの?」ってなもんで、検索に四苦八苦の末、日に5本しかない電車を教えてくれたところでせいいっぱい。

諦めかけたが、友人が夜中まで執念深くネット検索をしてくれた末に、ようやく長距離バスで行けることがわかった。

で、当日。バス停を探すのも一苦労だったんだけど、他のバスを待っていたおばあちゃんが話しかけてきて、「いい天気ねー。元気?」「…あー、どーもー。私ら、ポモナのカウンティフェアに行きたいんだけど、バス停はここでいいんでしょーか?」「あら素敵。バス停はここでいいのよ。」「ありがとうございます。LA初めてで、昨日日本から来たばっかなんで……」「まあ!ようこそ!それはスゴイわー。私、LAは暑いから嫌いなのよ。日本はこんなに暑いのかしら? そういえば昔、私の近所にも日本人の一家がいてね、そこの娘さんと仲良くしてたのよー、それでね(以下、長話諸々)」

というわけで、無事にバスに乗った。料金は4ドル弱。
乗り換えもあるので最後まで気が抜けなかったが、何とかかんとか会場に辿り着くことができた。

屋台の色彩はとても派手。
田舎の村祭りは、いまはむかし。
LAカウンティフェアは、トヨタの車や、ジャグジーバスセットや、野外キッチンのご商談ブースなんかも完備した、大規模なショーギョーシュギ的なお祭りでした。
それでも、炭焼きのターキーレッグやクラフトビールの屋台もあるし、牛さんも豚さんも「ふれあい動物園」みたいな感じで鎮座しているし、キツネザルやシマウマのいる移動動物園もある。サーカスに移動遊園地もあれば、地元大学生が解説する植物園という「文化的」な出し物もあるし、便利なキッチングッズの実演販売はまさに香具師の口上。
訪れる地元の家族連れは、ヒスパニック系の人たちがメインで、勝手に想像していたような白人の農家の人……とかは、どうやらこの界隈には元々あまり存在していなかったのかもしれない。遠足らしき小学生や中学生の集団が何グループもいて、きゃーきゃーはしゃいだり、いかにも中学生的な自意識過剰を垂れ流しつつ、仲良し同士でからかい合ったりしているのが可愛らしかった。バカみたいな感想だけど、あ、子どもってどの国でも、やっぱり子どもなんだなあ、とか。

祭の家族連れ。遠くに山が見える。

LAへの帰路の長距離バスは、夜勤に向かう勤め人らしき人々を中心に混み合っていた。お金持ちはバスになんか乗らずに自家用車を使うのか、どれも慎ましい身なりの人ばかりだ。ひどく疲れているような人もいれば、おしゃべりに興じるおばちゃん連中もいる。

バスの運転手さんはがたいのいいオッチャンで、乗車の列に割り込んできたヤンキー(日本語的な意味でのヤンキーです)のお兄ちゃんを、「待て、先に並んでいたこちらのお嬢さんが先だ。ここは俺のバスだ。文句を言わずに下がれ。割り込むつもりなら俺はお前を乗せない」などと叱り飛ばす。強面の兄ちゃんが渋々ふて腐れて譲ると、上機嫌に大声で歌を歌いながら運転していた。

別の停留所では、降車した少年が、発車しかけたバスに駆け寄り窓をこぶしで叩いた。オッチャンは「バカヤロウ何しやがるんだ!」とまたしてもすごい剣幕。少年が指差したのは、バスに乗り遅れた黒人のお父さん。乳母車で赤ちゃんを連れている。「この人を乗せてあげて」と、少年。
オッチャンは「わかったが俺のバスを二度と叩くんじゃねーぞバカヤロウ」と、親子のためにドアを開けた。オッチャンの悪態に向かって、野球帽にダボダボの腰穿きズボンの少年は、バスの外から誇らし気にピースサインを突き出した。
乗って来た赤ちゃんは、にこにこと隣席のおじいさんに笑いかけていたが、気難しそうなヒスパニックのおじいさんは、不機嫌にうつむいて頑なに目を合わそうとしない。やっぱりマッチョな文化圏の男たるもの、赤ちゃんに愛想は振りまけない沽券があるのかしら……などと想像しながら、アジア人のオバサンである自分は、変な顔して赤ちゃんの気を惹いて遊んだ。
オッチャンの朗唱が響くおんぼろのバスは、そんな調子で、夕暮れのハイウェイを走って行った。

◆◇◆

異国からの観光客にとって街の人々は、景色のように遠くにいて、ただ一瞬のすれ違いで過ぎ去ってしまう。多分に無責任な距離感でしか、関わることがかなわない「アメリカ」の風景にすぎないんだけれども、それでも何だか人懐こい親切心と、無遠慮な勝手さに妙にほっとすることが何度もあって、短いけど楽しい旅だった。
今回のハイライトは、この「“俺のバス”を仕切る元気なオッチャン」のほかにも、「リベラルなスローガンを書いたステッカーを路上で売るオールドヒッピーらしきおじいちゃん」「海辺で一緒にコントみたいなやり取りをする羽目になったバカ大学生たち」「ついにホールドアップだ万事休すだと思ったらハーツの親切な店員さんでした本当にごめんなさい」「弾丸トークが止まらない老運転手さんの地元自慢」などなど、うーん……とにかく人情の旅でした。

帰国後、LAに住んでたことのある友人に電話で、「いやあ、意外だったよLA。人情の街だねー」とそんな珍道中を報告した。「ほら、TVや映画だと、キラキラしてセレブしかいないような、そんな印象じゃない?」と、素朴な感想を告げる。
友人は笑って言った。「あ、ビバリーヒルズ高校白書とかね、あれはSFの世界だから」。
SFかあ……。

ゴージャスな正装で仮面舞踏会を開くお金持ちがいる(初めて見たよマジだったよ)ホテルの2ブロック先では、車椅子に全財産を乗せたおじいさんがゴミだらけの路上で力なく横たわっている。
9.11を迎えたワシントンからの、ISISなんかを改めて非難する演説に、FOX TVのアナウンサーたちがさらに扇動的な解説を加えるのをぼんやりと聞きながら、メキシカンファストフードの豆と米をプラスチックのスプーンで食べて、巨大な缶の薄いビールを氷で冷やして飲んだ。

たしかにSFかも。

A tree in the land of science fiction.

◆◇◆

でも、近頃じわじわとこの国を蝕んでいくような閉塞感に、息が詰まりそうになっていた自分は、ペリカンの群れが飛ぶカリフォルニアの青い空の下で、久々に深呼吸してた。

自分が世界だと思う場所は、世界のほんの一部分で、そうだ「ここではないどこか」を夢みることができなくなったとき、おそらく本当に自分は小さな世界で窒息してしまうかもしれない。
だから、広い海の彼方に、いまも別の世界の別の人々の暮らしがあることを、それがあらゆる海の彼方に、様々なかたちで存在していることを、時折こっそりと思うようにしよう。












2014年8月5日火曜日

田んぼの中で

とある猛暑の週末に、友人がレンタカーを借りてくれたので、車でしか行けないところにある水族館に行った。生まれ育った街から近い場所だったが、今まで行ったことはなかった。
お昼を食べるのによい場所は?と訊かれたけど、大規模なショッピングセンターくらいしか思いつかずに、面白くもないので困ってしまった。

やる気のない兄弟(推定)がいい加減なフランチャイズで経営しているような、不思議なおんぼろの安いレンタカーで旅に出た。店舗には駐車場もなく、車は何故か近所のコインパーキングに置いてあって、前身は洋服屋さんなのか何なのか、意味のないショーウィンドウには兄弟の私物らしいサーフボードが飾られていた。

土地に明るくない友人はネットを駆使して、田舎には珍しい気の利いたレストランを探してくれた。カーナビで無理やり辿り着いた店には冷房がない。運ばれてきた煙の上がる七輪で肉を焼くランチを食べた。これに耐えられたら、今年の夏は乗り切れるかも……備え付けのうちわで堪らずに顔面を扇ぐ。朦朧として、だけど新鮮な羊肉はとてもおいしかった。天井の高い一軒家の店舗の周りを、種類の分からない蔓植物がもくもくと十重二十重に包んでいて、人気のない商店街と、聞いたことのないない名前のディスカウントスーパーが隣接していた。年寄りがゆっくりとカートを押してそぞろ歩くそのスーパーで、かなり霜の覆った安いアイスキャンデーを買って、駐車している間に温度の上がってしまった車の中で食べた。

湖の畔にあった水族館は小規模ながらとても素敵で、薄暗い水槽の冷たい水の中で元気のいい魚がのんびり泳いでいた。びっしり書かれたマニアックな解説文。ショートボブを明るい紫色に染めた女の子が無愛想に、日付の印字されていないチケットをちぎってくれた。
「トイレはどこですか?」「この水族館にはないので、駐車場の方へ行ってください」
湖に出てみると対岸は見えないほど遠くにあって、日陰に逃げても熱風が吹き付けてくる。濁った水に動きはない。水族館で見た迷惑な外来魚が沈んでいるのかも、ねっとりとした水面にかすかに立つ波を見ているだけではわからない。5分もいれば、汗が玉のように皮膚を覆うような、そういう午後。

道を間違えて迷い込むとヒマワリ畑があって、大振りの白い花が空中に浮かぶように咲いている蓮田が連なる。
国道から見える大規模なサギのコロニー。田んぼに舞い降りた陽気なダイサギの群れ。

そして、イオンだかダイエーだか、城砦のような大きな建物が田んぼの間に現れて、それはまるで蜃気楼みたいで。とにかく知らない景色であることは確かだ。

いろいろ考えようとしても、冷房も効かない熱暑にやられて、半端な印象はすぐに蒸発してしまう。

帰路を確かめようと巨大なドラッグストアに車を止めたら、向かい側には市民公園の森があって、ヒグラシが鳴いていた。トイレの脇の喫煙所で煙草を吸う。もう一度アイスキャンデーを買った。数十キロ離れた先程のスーパーよりも20円は高かった。

やがてのろのろと都内に入ると、街道沿いにはパチンコ屋さんのイルミネーションが輝く。郊外型のファストフードが物珍しくって感心しながら、ラジオの退屈な歌謡曲を聞き流している。他の局に変えても興味のない野球中継だから、知らないアイドルのたどたどしいインタビューを聞いたりして。このたびの新曲だとか、やたらとテンションの高い受け答えとか、知らないお店の変なジングルとか。激安レンタカーは延長したら急に高額になるから、もう一度トイレに行きたくても慌てて渋滞を抜けるため走る。

助手席から見える景色の断片。
地続きでつながっていても、遠い場所の断片だけ、出来の悪い構成のスライドみたいに。

帰宅して、サギのコロニーについてネットで調べた。
お役所のPDFの数字をあれこれ見ながら、ところであの唐突なヒマワリ畑はなんの幻だったのだろうかと、ただ記憶のなかにだけ記された景色を頼りなく反芻する。

もっと素敵な場所になれはしなかったのか。水の街の現在が通過してきたそれまでの日本の歴史のコンテクストを思うと、すべてを他人事にしてしまった近隣住民の自分がいけないのだけれど、やはり少し悔しい。外来魚とショッピングモールよりも、他に違った未来があったかもしれないのにね。

それでも、考えようとするそばから熱風が消し去る事どもなれば、とくにとどめ置くほどの考えもなく。とにかくとても暑い日のことです。





2014年5月29日木曜日

戦場のガールズライフ!

雑誌って読まなくなっちゃったなあ。
最近買ったのは、『精神看護』5月号。記憶と認識が衰えつつある老父にどんなふうに接したらいいのかわからなくて、すがるように記事を読んだから、まあそれは、「おいしい鯵の南蛮漬けの作り方」が載っている『栄養と料理』を買う新妻のような、その程度の切実さということです。

今朝はむにゃむにゃ眠っていた早朝に、母からの電話で叩き起こされて、「あなた、今度はいつ来るの。元気なの」って。ついこの間会いに行ったばかりだし、朝早く起こされては、仕事も毎日あるんだから、ねえ。「元気なの」は、ないでしょうよ。

暗い気持ちで、仕事に向かうバスに乗る。
理知的で、大らかで、自制心の強い父母だった。そんな夫婦に育てられたんだと思ってたんだもの(子どもの認識としてはね)。
あんなふうに、不安に苛まれながら、老いていくこと、何より、自分もそうなるのかと思うと、本気で怖くなる。かろうじて梅雨前の青空の下なのに。
老親の死を願う開き直りにはさすがに抵抗があっても、せめて、自分の命くらいは、まだ自分の理性で制御できるうちに、終わらせてしまってはどうかなあと、バスの中で俯く。
でも何故、「自殺はいけない」と神様は言ったことになってるのかな。
そりゃ酷だぜ、神様……。

とあるバス停で、車椅子の青年が乗り込んできた。運転手さんが後ろのドアにスロープを設置して乗車の手助けをしている間、バス停の人たちはそれを待っている。急いでいる人なら腹を立てるかしら……という心配は下衆な杞憂で、みなお行儀よく、後から乗車していた。

(そうか、もし自分の命を終わらせることに何か理由を選んだとしたら、それを「生きるに値しない要件」として、他の人が生きることを否定することにもつながるのかも。貧乏だから…身体が不自由だから…知力が衰えつつあるから…病気が治らないから…それを死ぬ理由にしたら、そうやって生きている人も間接的に殺してしまうんだもの。それならば、どんなに辛い状況があったとしても、それでも生きられるよう、辛さの原因を何とか解決できるよう、動くほうが前向きだよね)

バスの中なのに、何か涙が出てきて、仕方ないから、とりあえず「主の祈り」でも使って、神様にお礼を言おうかな、と思ったけど、不信心な自分の場合は、見事にうろ覚え。

えーと。
あなたの元にあるような正しいことが、この地面でも行われますように。
そちらのような、素敵なことが、地上にもありますように。
あと、日々の糧をお与えください。ご飯食べられないと困っちゃうもの。
働くからね、今日も、何とかかんとか、身体動かして、日銭を稼ぎますよ。
私、一生懸命イヤだなあって思った奴だって、自分を棚に上げて責めたりしないで、せめて親切にしようって、がんばるつもりです。
だもんで、どうぞ、そんな感じで私のことも、ちょろっとはお目こぼしいただければ、もっとがんばります。
私は、弱いから。とても、弱いから。
あなたに頚木の半分を、背負っていただくことで、ようやっと歩いております。
ですから、私が迷うときも、どうぞ、一緒にいてください。神様。
どうか、どうか、よろしくお願いいたします。
アーメン。

仕事から帰りの電車では、ココナツとオレンジの香りのするきれいなお嬢さんが、間近に座っていた。きれいに結った髪を眺めて、ちょっとうれしくなった。

「ゆうきをだして あるかなくちゃ。うえをむいてむねをはって。」
……とかね。

とかね。

中野駅南口のたい焼き屋さん。













2014年5月20日火曜日

キカショクブツ

五月になっても、夜はなんとなく肌寒く、パジャマにパーカーなど羽織ってごまかしながら、近所のコンビニに煙草を買いに行く。
砂利を敷いた駐車場の一角にバラの花かと思えば、ほろ酔いと近眼のせいで、それはみすぼらしい春紫苑がゆらゆら。

北アメリカが原産で、かつては園芸植物として、わざわざ植えられたとのこと。
いまでは貧乏草なんて呼ばれて、荒れた庭や埋立地に群生していたりする。
ごわごわした茎と葉には風情がないけど、それでもキク科の端くれとして、黄色い管状花の周りを、桃色の舌状花がふちどって、マーガレットだって、ノースポールだって、親戚みたいなものなのに。

人間の都合で、植物の貴賎だの有用性だのを定めるのも、身勝手な話だけどね。

これはたぶんキュウリグサ。勿忘草の仲間だとか。






2014年5月1日木曜日

昨日の続きの明日がいつか歴史になって

原発大好き親父が経営している新聞社だからって、色眼鏡で見てはいけなくてよ、たぶん。

思いがけない休日に、自転車で近隣を走り回る贅沢。いくつかの図書館に行った。税金の滞納分を納めた後だったりしたのが余計に、公立図書館の恩恵に浴そうっていうケチくさい根性もあったかもね。

歌舞伎だので面白おかしく語られたニュース、地元では誰一人知らぬ偉人の行状の顕彰、関東の話だから、江戸時代の話が主だったりするが、府中に中央政府とのつながりがあった時代のことなども。稲葉博『東京古社名刹の旅』(読売新聞社、1987年)を、図書館で借りてきて読んでいました。

私は東京の出身ではないから、それでも10年以上はそこここに寄生しているので、見知った場所の昔の話として、面白く一気に読んだ。再開発で古い町並みが壊されたとしても、さすがに寺社を壊すのは気が引けるのでしょう。古刹を手がかりに、その町の古い顔が見えてくるから、「古めの寺や神社のない町に住むとろくなことはない」という実感を、年寄りの少ない町に住んではいけないという玉条とともに守ったこと、改めて省みるわけです。

とはいえ、かつて住んでいた近辺にあった吉良上野介の墓所をもつ寺が、本来の江戸である東のほうから移転したことも、たまたま知っていた。火事に地震で、町ごとが田舎に移住していく。そういうこともあるのだ。その意味では、寺社でさえけっして不動の歴史を刻む場所ではない。

しかし、まあ、それよりもなにより。

忘れられてしまうことの膨大さに、くらくらした。
有名な事件も人も、石碑に刻んでも物語を残しても、結局は消えていってしまう。
青黴の生えたような伝統を、四角四面にありがたがる必要はないけれども、やはり木と紙でできた国の軽薄さなのかな。たかが江戸時代のことすら、忘れられていくさまが、博学の人の語る地史との現在からの隔たりの遠さを前にして、これはさすがに愕然とするものがある。

ならば、どうなの。
いま自分が生きている時代の問題は、どんなふうに伝えられて/消えていくのかな。


同じ頃、自転車ででたらめに遠出したら、旧い豪農の庭地を見たり、多摩の「はけ」を越える道のりに四苦八苦したり。
町に刻まれる暮らしの記憶を、どうやって辿ろうかなどと野望を抱くゴールデンウィークでございました。

妙正寺川のこいのぼり。

2014年4月21日月曜日

桜が咲くと年をとる人の場合

季節の境の小糠雨に 大きすぎる男物の傘を広げると
何だか曲芸師にでもなったような気分になるが 別に殊更の芸もない
持て余してくるくると傘を回すが
昔 誠実であろうとした小娘なりの精一杯を思い出そうとしても
それは ただ一箱の煙草を買いに行くだけの外出であったから

種を蒔き水を遣り
もし発芽したなら この春を見送ることにも理があるのか
そんな勝手な問いに答える人も誰もいない

だがソメイヨシノは咲いて散り
桜の花の塩漬けをまんまと作ってやろうと 校庭の花をちぎっていた小娘は確かに青空を見て
自動的に年齢が加算される春をあっけらかんと笑っていたから
そんなふうに軽はずみに足を踏み出して
おんぼろの自転車のペダルを清々と漕いで

下り坂ならば足を上げて
車輪の回るままに面白がって落ちていく
その先が川だろうが淵だろうが
たとえ太平洋だとしても 所詮その先はハワイだもの

パイナップルとか ハイビスカスとか 時計草とか 
種から育てても 温暖な気候ではよい株になるから
だからお婆さんになった自分でも
きっと笑ってしまうはずだよ
手を叩いて涙流して 息苦しくなるほど
大笑いしてしまうと思うもの

近所の公園の桜まつり



2014年4月16日水曜日

煙草を吸うと早死にするって禁煙治療のCMで宣伝してた

正確な数字とかは覚えちゃいないんだが、とにかく10年は寿命が縮むと。
長生きなんかしたくないから、がんばって煙草を吸おう。今吸っている煙草は、4月いっぱいで販売中止になってしまうんだけど、違う銘柄を探そう。

毎日やるべきことはまだ多いけど、80歳になっても同じかどうかはわからない。不治の病を抱えて老いていく親を見ていると、怖くなることが多々ある。そうでなくても実際に自分の身体は下り坂で、目は見えなくなるし、膝の関節も弱くなった。切り傷はなかなか治らない。
本当にいつか、「もっと生き長らえたい」と慌てて後から望む日が来るのか、46歳になっちゃった自分はよくわからない。
かといって、いまのところ、元気だった若い頃に残した後悔があるというのでもないみたい。
1年、2年、3年、下り坂の日々は刻々と、とにかく残り時間を食いつぶしていく毎日が、今日から明日へとまた流れていく。
保険の支払い、自転車で遠出して、請求書を送って、「東電TV会議」を埼玉の公民館で見て、改装した銭湯に行って、消費税が上がったあと安売りの塩鮭を焼いて、近所の餌付け猫をからかって、鉢植えの剪定をして、予定外の原稿料で太刀魚のお刺身を食べて。

2011年の写真が出てきました↓

2011年3月13日、近所のスーパーの棚

2011年4月8日、職場のデスク

2011年4月10日、高円寺デモ


2011年9月13日、新宿







2014年3月31日月曜日

……And wrong one I have chose?

「白いマグカップを二つ持ってきてください」

「そのうちの一つの持ち手は、緑色に光るようになりますので」

「ですから、それは結局違うカップになるんですけれども」

ぼんやりと蛍光色を放つ。
微かなほたるのひかり。

変な夢をみたけど幸せな気持ちがした。
いい加減な植え方をしているのに咲いた実家のピンク色のヒアシンス、鉢に植え替えて親の住む場所に運んだ。いやになるくらい、甘いにおいがする。
たぶん、ずぼらな母は、枯らしてしまうだろう。

自分用には白いダリアの球根を買ったので、ベランダで鉢に植えてみる。


「思いたってダリアの帯さがしたんだけどなかった。……
喪服には一番似合う帯だと思うんだよねー」(大島弓子『ダリアの帯』)

2014年2月28日金曜日

凡庸で散文的な受難

三角コーナーで卵の殻とかが一杯になっていたネットを外して捨てようとしていたら、左手の指の腹の当たるところに、阿佐ヶ谷のカルディで安売りしていたキャンベルのマッシュルームスープの空き缶が、缶蓋をくるりと反り返した状態であったってことだ。それに気づかずに、薬指を蓋の縁でざっくり切ってしまったの。
血が止まらないって、ものすごい動揺する。
東京消防庁の救急相談に電話したら、看護師さんが止血の手順を冷静に教えてくれて、「大丈夫です。血は必ず止まります。固まりますから」って、そうだそんなたかが切り傷の当たり前の生理機構、忘れていたよね。夜中に何かあったとき、とても頼りになるので、覚えておいてくださいね。東京救急相談センター。本当はこの程度の怪我なら、正しい止血をすれば翌朝でもよかったのかもしれないけど、とりあえず「病院に行ってください」って、夜間診療をしている病院を教えてくれました。

掌を手拭でぐるぐる巻きにして、教えてもらった近所(とはいっても隣接区)の病院にタクシー拾って行く。寝巻きの上に綿入れ半纏とサンダル。端数の40円をオマケしてくれた運転手さんは、異様な風体の私に同情してくれたんだろうか…。帰路は急ぐ必要もないので、その格好で歩いて帰った。ご飯を作ろうとしていた時の負傷だったので、そこまで腹ペコなんだけど、外食のお店に入る気にもなれず、さりとて料理もできないから、有り合わせのお惣菜など買って帰った。

6針縫いました。翌日の消毒通院でもらった診療明細書には、「創傷処理(長径5cm未満・筋肉、臓器に達しないもの」という手術明細が。大きさで点数が決まるのかな?こういう表現って、読むだけで痛いよねー。

◆◇◆

仕事がちょっと忙しくて、土日出勤の代休も取り辛くて、部屋の鍵を間違えたり仕事の連絡でミスをしたり、その他諸々のボケっぷりは、うーん、こりゃ鬱が再発してんのだろうなあ……と思いつつ、まあ、そんなのも十代から何とかこなしてきたのでそこでは慌てず、とりあえず血は止まったのだから、抜糸までは抗生物質と消毒消毒。

◆◇◆

3月9日には、「0309NO NUKES DAY 原発ゼロ★大統一行動」があるんだけど、私はデモで太鼓を叩かずに、「3.11メモリアル・シンポジウム 生命をめぐる科学と倫理」に行こうと思っている。イベント重なっちゃって辛いとこだが、今年はそういう選択になりそう。

などなど、近況です。

机の上の混沌





2014年2月19日水曜日

痛みの壁

最近、ツイッターがちょっとしんどい。

もともと、サッカーの贔屓チームの浮き沈みなど、馬鹿話をのんびりするためのアカウントだったんだけど、地震の後は慌てていろいろ情報を集めるために使ったりして、さらにその後は、反原発デモ界隈でフォローする人が大半になった。

正月に両親が本格的に介護の必要な状態になったあたりを機に、反原発に関するあれやこれやに、以前ほど熱心になれずにいる。正直、それどころじゃないや……という、自分の身の回りのモンダイに気をとられることが多くて。目下の深刻さは、ただ自分の半径数十センチメントールに停滞していて、そういう個人的なことはだれとも共有できる問題でもないから、ある「イシュー」のもとに連帯できる人たちの言葉を眺めていると、余計に気が重くなってしまうことがある。

地震の後に、サッカーを見るのがしんどくなってしまったのと同じように、親が倒れてから、デモに行くのがちょっとしんどくなった。
それはたぶん、モンダイと自分との距離なんだと思う。
世の中への義憤に駆られて、デモに行っていたわけじゃないんだ、たぶん。
それは、とても個人的な怒りだっただけ。
でも、きっと自分にはそういう距離感でしか、あらゆる「イシュー」との接点が探せないんだと思う。そして、そのことは無責任かもしれないけど、自分にとっては誠実な態度だと思っている。
社会派ではない自分が、そのようにして外界と繋がろうとすることは、今さら無理矢理に社会派になることなんかより、真面目な方法だと思う。

そこで、ふと思う。
津波で家族を失った人や、原発でふるさとを失った人たちは、どんなふうに東京の反原発デモを見つめていたんだろう。
東京にいた私たちにとって、心底の恐怖と、個人的な怒りによって止むに止まれなかったあの頃の身の振り方だったのに、おそらく彼らにはきっと、「こっちは、それどころではない」という思いだってあっただろう。そのことは想像してはいたけれども、今、きわめて個人的な痛みの中に閉じこもって、だれとも共有できない喪失感や重荷と向き合う羽目になってしまうと、あらためてその「壁」を痛切に感じる。
就活が大変で、デモどこじゃないよ、と、冷ややかに路上で太鼓をたたく私たちに背を向けた大学生の気持ち、とか。

◆◇◆

親しい友には、深刻なからだの障害を持っている人や、不治の病に苦しむ人や、日本での民族的なマイノリティに属する人や、面倒な家族の事情を抱えている人がいるんだけど、彼女たちと喋っていると時折、「そうは言っても、健康な、日本人な、普通の家庭で育ったあんたになんか分からないよ」という強い拒絶に遭うことがあった。その頑なな壁を壊そうと、あなたの孤独を何としても和らげようとして投げかけるどんな言葉に対しても、全身全霊を以て拒絶するような高い壁。
その壁の前に、友であると信じる自分は、ただ友の痛みにけっして同一化できないことを、黙って引き受けることだけしか、許してもらえなかった。どんなに仲が良くても、けっして踏み越えられない痛みの場所を守るため、壁を築くこと。だれでも、そんな壁を持っている。

それはとても悲しいことだけど、だれもが分かり合えて、他人の孤独を肩代わりできるなどという夢想は、やはりどこかで傲慢なものでしかないかもしれないから。
だからといって、その壁を壊そうとする試みが全て、否定されるというものでもないし。

高い壁の前で途方にくれながら、それでもだれかと繋がろうとしながら、その無力を噛み締めつつ。
だれもが孤独であるということ、そのだれもが圧倒的に不可避である事実の前に私たちは、けっして孤独ではないという逆説。
今はとりあえず、そんなことをぼんやりと思いながら、また先に進もう。

まさかの二度目の大雪(2/14夜中)





2014年1月7日火曜日

瞳はダイアモンドとか。

もしも不真面目な人だけが、誤謬を犯すのであるならば、真面目な人はそういう人を蔑んでさえいれば、安穏といられたのかもしれないけど。
でも、実は全然そうではなくて。

生真面目に思い悩んで、あげく選び取った方法が、とんでもない帰結になることもあるし。

「答は風に吹かれているだけ……」とかで、不毛な議論を終わらせられたら、無駄な反目もなく、ラブ・アンド・ピースだなんて、安いウィスキーで乾杯して、仲良しになれたりしてね。
だけどもう、そういう鎮痛剤の、つまらないことと言ったら。

新年明けまして間もない今です。
希望という言葉の意味を、考える機会も何かと多いことでしょう。
天皇杯決勝? 箱根駅伝?? 不自然な仕事始めに設定された、パブリック・コメントの〆切日?

私的な悩みと、公的な問題意識の在り方と、天秤に架けたりしたら、それはそれで、どうにもありきたりな世間体に一歩、近づくような気もしてしまう。
贅沢は敵、でしょうか。
進め一億火の玉、なんでしょうか。
足らぬ足らぬは工夫が足らぬ、なのかな。

冷酷なほどの合理性と、やたらと湿っぽい情念と、そのどちらにも片足を置いて、今となっては果たしてそれが本当に、「自分の頭」と言えるかどうかすらわからない装置(おんぼろの)を仕方なく駆使して、嫌な方向に回りつつある歯車の上を、可愛い齧歯類のモノマネでもしてお茶を濁しながら、あんず色の朝焼けのほうへ、少しでも走って行こうか。

もしもこの老眼から涙がこぼれるとしたら。
それでも、それは高校生の頃に海辺の砂浜に腰掛けていたとき、制服のスカートのプリーツに滑り込んだ砂が目に染みたから。

たぶん、そんな理由だと思う。
まるで言い訳のように、いま、思うことです。

年末の国立。オリンピックを機に大幅改装とか。。





2013年12月9日月曜日

安上がりな子ども

実際に死期も近づいているのだろうけれど、病と老いを背負う身を嘆いてはうんざりしている母が、細々した愚痴の合間にふと笑って、「昔は楽しかったわね」と、私らが小さかった頃の思い出をやたらと話す。ときにそれは、私の記憶とは違っていたりするのだけれど、幼い自分が思い違いをしているのか、老いた母が忘れているのか。
生意気で、女らしいオシャレもせず、孫をつくることもせず、介護の役にも立たず、終始一貫して貧乏な娘に呆れながら死ぬよりは、記憶のなかにある、楽しかった日々の可愛らしい子どもたちの姿を胸に、笑いながら旅立ってほしいと思うが、まあ、そんなにうまいことはいかないだろう。

◆◇◆

いろいろなこと、大人になると忘れてしまうものかと思っていたが、今ならまだ覚えていることがある。小学生のころ、子どもが大人になった自分に手紙を書くという「おはなし」を書いた。子どものころに怖かったこと、悲しかったこと、悔しかったことを、どうか忘れないでほしい、という手紙。中学生になっても、確か似たようなことを日記に記した。いつか大きくなって、幸せな大人になったとしても、いま辛かった気持ちを忘れたり軽んじたりするようなら、十代の私はけっして大人の私を許さない、と。
全くどういう執念なのか笑ってしまうが、当時の自分が言いたいことはわかる。子どもの理屈に対して、大人の理屈というのは強権的で絶対なんだけど(それにしばしば、本当に大人のほうが正しい)、子どもには子どもの理屈が存在するということを、想像できない大人にはなるな、という戒めなのだ。
幸いか不幸か、私は母という存在になることがないまま中年になった。食べかけのソフトクリームをうっかりして落としてしまって、わんわん泣いている子どもなどを見ると、「あなたがちゃんと持たないで余所見しているからいけないんだよ」と思うよりも、「ああ、なんていう、取り返しのつかない悲劇だ」と、一緒に泣きたくなってしまうようなことがある。

◆◇◆

庭にゴザを一枚敷くだけで、そこは特別な場所になる。神妙な顔をして、靴を揃えて脱いで上がるのだ。おかえりなさい、いらっしゃいませ。

コップに入れたただの水は、ストローで飲むと、百倍もおいしくなる。縞模様の曲がるストローなら、三百倍くらい。

鉢植えにわさわさ茂っているつるつるの万年青の葉。掻き分けると、真ん中に赤い実が房になっている。それだけでも素敵だが、赤い果肉をそぎ落とすと、真珠みたいな真っ白な玉が現れるから、いくつも作って、宝石にする。庭の日陰に生えてる龍の髭からも、もう少し小振りな真珠玉が取れる。

月の初めの日には、前の月のカレンダーをはがすから、必ずもらって、裏に絵を書く。写真が印刷されたつやつやした紙は、色鉛筆の色がうまく載らないから、文字だけのカレンダーの紙のほうがいい。隣の家にまで行って、もらったりしていた。月に一度の楽しみ。

桜の幹からにじむ脂のかたまりは、いいのを探すと、よく固まって透明なのがある。光に透かすと、飴色の空が見える。琥珀は松脂からできるんだと知って、筆箱の中に大事に取っておいた。そのうち琥珀になるに違いないと信じて。

木の根元に目を凝らすと、幹の木肌そっくりだけど、よく見ると違うぼろ布のような筋がある。それは地蜘蛛の巣で、靴下のようになっていて、先端は地面に埋まっている。注意深く、幹から巣をはがして、最後まで気を抜かずに土から引き抜く。あまり乾いていても、湿りすぎていても、力加減がうまくいかないと、途中でちぎれてしまう。うまくすっぽりと引き抜けたら、そっと破いてみると、中から茶色いビロードみたいな腹をした地蜘蛛が出てくる。さらに運がよいと、埃のような小さい子蜘蛛がわらわらと出てくる。

◆◇◆

などなど。
こういうことは、たぶん、母の記憶にはないだろう。
瑣末で、じつにどうでもいいような、子どもの世界にあった日常。だれにも省みられることもなさそうだから、覚えているうちに、何となく記しておきたくなった。
ただそれだけのメモです。











2013年10月29日火曜日

踊り続けよう、腐った梨でおなかを壊しても

「ぜつぼうしてはいけないと、たぶん神さまは言うでしょう。言うでしょうったら」

金色のチーズの塊に躓いて
怯えているのは膝を擦り剥いたからではなく
では遠くに見えた稜線の暗い深緑か

なぜ泣いたりしたのでしょう
慰めてくれる今はいない ぶち犬のことを 思い出しても 仕方ないのに

それでも走って行け
それも叶わぬなら這って行け

そよぐ緑のすすきの川原で
あんなにもたくさんの ショウリョウバッタが跳ねている

名も知らぬ外来植物薙ぎ倒して
偏平足で走って行け
怖くなっても水辺まで
喉が渇いても
飲めぬ水の流れる川へ

たまに叫びたくなる夜には
それならこっそり咳をすればいい
きっと誰も知らぬことだから
だから喉から血が出るくらい

きっとよくありふれた話だよ

どこにでもある つまらない話だよ




2013年8月31日土曜日

8月31日、室温摂氏32度

アンモナイトはかつて
よいダシが出るからと重宝されていたのに
最近の娘たちは
うちのあのしつけの悪い嫁などは
そんなことも知らないので 困ります
アンモナイト マラカイト ボーキサイト
この家の敷居を跨いだのなら 味噌汁の味くらい覚えてもらわないと

虹色の石になったアンモナイトの上に 土が積もって
その上にも 火山灰が積もりました
彼の山で追いし野うさぎ ぴょんぴょん
眠る胎児のかたちに 優しく磨いた青い耳飾り
指で擦ると 良いにおいのするB29の防弾ガラス
幾重にもアップルパイのように降り積もって
そうしてあの丸い丘ができたとのこと

遅刻しそうになると 仕方なく息せき切って
あの坂を登って
坂の上にある教室に滑り込んだ

夏が終わる時はいつも あれだけ日射しの痛みに悪態をついても
なぜか
急に 惜しむようなケチな心もちになって

とうに忘れていたけれど
夏はまた巡りくるということ
そのことに意味はなくても
こうして また

腐ってしまった未来の上に土が堆積して
けっして好きではなかった 紙細工のような百日紅とか
見上げると咲いていて
それはそれで笑ったり

行きて告げよあまねく

でも 何をか

ようやく会えたなつかしい人にか
もう会えぬ老いた人の背にか




2013年7月12日金曜日

酸化、醗酵、腐敗、その他の自暴自棄

高校の3年間だけ過ごした海辺の田舎町があって、巨大な工場地帯の周りに、虫食いみたいに旧来の商店街や新興住宅地と屋敷森なんかが、無秩序に混在している景色の中で暮らしていた。都会から流れて来た人が始めたらしい瀟洒なカフェがあったかと思えば、その裏手では突然に作りかけの道路が中途半端に放置されて、ひびの入ったアスファルトからセイタカアワダチソウがにょきにょきと生えていたりする。ポーカーゲーム機とやらを置いている薄暗い喫茶店がいくつもあって、あそこはヤクザが経営してるんだよ……なんて噂を聞いた。工場用地に土地を売った人たちの資産目当てに大量のヤクザが流入し、博打で俄か成金の有り金を全部まきあげていった……なんて噂も聞いた。
やけに荒涼としていて、どこかしらが壊れているような町だった。

昔の教科書には、大工場地帯は日本の経済成長の顔として、誇らしく描かれていたものだが、今はどうなんだろう。産業が振興するのは善である、生産性が高いことは善である、などなど。去年行った福井は、さびしい町だった。工場や発電所を誘致して町が潤うことは、とにかく善であるという考えは、今でも本当に有効なのかどうか。

それでも私は、奇妙にバランスを欠いた海辺の田舎町で、たまたま暮らす余所者として3年間を過ごした。親元を離れた寮生活だから、土地の暮らしのしがらみも何もなく。だから工場誘致による地域コミュニティの破壊とかそういう話は、女子寮で安いウォッカを飲んで酔っ払っていた自分にはわからない。

こんな暑い夏の日には、どこで唐突に終わるのかわからない舗装された広い道を、コンビナートの見える海岸線まで自転車で突っ走っていった十代の景色を、ちょっと思い出したりするだけ。とにかく暑いから、本屋の冷房でしばらく涼んで、炭酸にむせながらコーラなんて飲んでたそういう夏。きらきら光るひび割れた道路の上で、放置されて雑草の茂る畑地の横で、チャチな片思いとかしてた十代の夏の景色。

これは近所の廃ガソリンスタンドに咲いた花。