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随分と遡る話だが、今年の正月に母の要望で初詣に行った。電車もバスも路線がないのだが、車でなら行ける場所の神社に。そんな場所に立派なヤシロがあって、「文化不毛の地」だもんね、なんて軽視していた北関東の地元の未知の歴史に驚いた(卒論は近畿の寺社縁起を使ったのに、近場のスポットなんて知らなかったことを後悔した次第)。
それで慌てて、今は水運の歴史を付け焼刃で調べている。縄文海進とかその辺も踏まえて、今となっては鉄道もない陸の孤島なその近辺にあり得た人や物資の流れは、利根川流域の水運というキーワードがなければ説明がつかないという直観。すると、鉄道の沿線を「町場」の所在地だと思っている近頃の通念からは、がらっと異なる地理が見えてくるのね。近世から近代に向けての断絶に関しては、こんな話も。
「……つまり『舟揖ノ通スル水部』の両側は、すべて河岸地として官有地化することを強行した。政府の見解による河岸地とは、たんに水路の両側の部分だけの認識にとどまり、湊としての機能などはまったく考えていなかった。この認識は現在まで一貫して続いている。明治初期の河岸地・物置場の官有地化が一段落した後は、財政難を解消する一つの方策として、適当な相手を見つけては払い下げ処分をしていった。旧大名藩邸の物置場の多くは、明治10年代から20年代にかけて、民間の有力会社に払い下げられた。図34の物置場の変遷を地図上で追ってみると、相当の部分が藩閥と結んだ政商の所有になっている。河岸の場合も江戸湊の中心部の日本橋に限ってみても、魚河岸をのぞいて、周囲はいずれもしかるべき「会社」の手に移っている。そして大部分の河岸はのちに東京市の基本財産として移管された。しかしその後も切り売りが続き、現在ではほとんど、この基本財産はなくなった。」(鈴木理生『江戸の川東京の川』)あら? どこかで聞いた話??政府の覚えめでたいどこだかが、ズルをしたとか、何とか。
近世だってちっともそこには、牧歌的な理想社会なんてありゃしないのだ。たかが利根川の水運というトピックをちょっと見ただけでも、儲かるネタに殺到して互いの足を引っ張り合い、「取り締まってくれ、アイツが悪い」と幕府に上訴……の繰り返し。互助的・自律的な市民社会の形成の契機はなかったのかなあ、と知人と雑談した。
江戸時代は循環社会……などという通念も多分に幻想かと思う。需要と供給の規模が限定的で、技術的にもそれ以上の開発が不可能だったからこそ、資源を枯渇させないで済んでいただけで、後世を見越しての資源管理なんて、あんまり考えていなかったような。金肥(鰯や鰊)の話、頭クラクラする。それが、水運の見せる相貌の一面であって。
それでも私は、なかったはずの歴史を捏造するような、物語をこっそりと作ってみたいと思っている。つまんない既得権益を守る人もいなくて、美しい景色の中で、出自の違う人間どうしでも、みんなが助け合っていた、とか。
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デモにも行かなかった今年の3月11日について。
これは中井。染物の川の昔。 |
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