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2013年7月26日金曜日

デモクラシーだよ! 夏の“漢[オトコ]祭”

 ここんとこ、映画を何本か。「欲望のバージニア」(邦題何とかならんのか…)、「選挙2、オーディトリウム渋谷の「はじめての小川紳介」イベントから二日連続で「三里塚・第二砦の人々」(1971)、「日本解放戦線・三里塚の夏」(1968)。「選挙2」を見る前に高円寺であった想田監督を囲むイベントに行って、見た次の日に参議院選挙があったという時系列。別にシネフィルとかではないので、たまたま偶然のスケジュールって感じ。次はリンダ・ホーグランド監督の「ひろしま」もどこかで都合つけて行く予定です。

「欲望のバージニア」を見に行ったのは、もちろんニック・ケイヴが好きだからってだけで、後味悪そうな題材だし、まあマニアの因果ってことで言い訳しながら足を運んだんだけど、血腥くてストイックな御伽噺という風情がファンとしても満足で、そういう自分みたいなシガラミがなくても、意外といい按配にまとまった小品だったのではないでしょうか。時代や風土への十分な知識がないので、おそらく台詞の微妙なニュアンスは味わえなかったけど。それ以前に、英語がそこまで分からないという問題もあるしね。

時代はともかく、風土への感情移入でもって見続けてしまったのが、小川紳介の三里塚シリーズ。南部訛りの英語は全く無理でも、成田辺りの訛りなら、近隣で育った人間として大体は分かる。抽象的な歴史的事象の一項目でしかなかった「成田闘争」とやらが、自分と地続きの言葉で語られたとき初めて、切実なリアリティを以て迫る(それは自分の想像力の欠如に起因するのかもしれないが、想像しなくても感情の機微が聞こえてしまう声だったから)。そもそもは、恵比寿の写真美術館で見た「三里塚・第三次強制測量阻止闘争」でのその体験に圧倒されて、爺さん婆さんたちの言葉をもっと聴いてみたくなった。映像記録って、そういう意味で本当すごいよね。
「おめらの母ちゃんだって、こんな人殺しするよに、学校さやって、おめらを育てたんじゃなかっぺよ」という、機動隊の若者に向けた婆さんの叫び。「あれだあな、昔で言えば悪代官の仕業だっぺな。……昔と違ってよ、立派な憲法だってある時世で、こんなことが起きんだかんな……おかしいどな」という爺さんの呟き。それは、農民の語る朴訥な言葉といった外側からの意味づけを拒むように、自分にとっては、ただよく聞き慣れた響きでしかない。だからといって、自分を当事者の側に置くことも到底かなわないとしても。

連作の第一作である「日本解放戦線・三里塚の夏」は、爺さん婆さんに焦点を当てたその後の記録とは視点が若干違っていて、難しい言葉を駆使する学生さんたちの議論にも多くのシーンが割かれている。この運動で学生と地元の人たちの関係がどのように始まり、どのように変質していったかを私はまったく知らないのだけれど、「農民」という呼び名であったり、「空港粉砕」というコールであったり、「闘争」とか「解放」とか「ベトナムの人民との連帯」とか、とにかくそういう観念的な言葉と、爺さん婆さんたちの訛りまくった日常的な言葉との対比が気になった。あと、アジ演説の独特のトーンとか話法ね。そういう時代の雰囲気を生きたことのない自分から見れば、彼らの言葉もまた、本来ならば彼らが最も忌み嫌っていたはずの、軍隊の命令口調のように聞こえてしまう。デモというのが、まさに示威行為であったそのころ(ジグザグデモってこれかあ、って初めて目にして思ったけど、すごい疲れそうだね)、「闘争」の「勝利」とは、いったい何を以て計られたのか。作戦を立てる男連中の議論は、まるで戦争ごっこに興じる愉悦にも見えることがあって、なんとも言えない気分になった。

(ちなみに最近、旧某大学全共闘のおじさま方と喋っていたら、おじさまは今でも無意識に「闘争」という言葉を使ったり、デモの日付を「サンテンイチイチ行動」とか呼んだりする癖が抜けないので、面白がって茶化すと、「うるせーなあ。あー、そういうの、年寄りって言われちゃうのね」と照れ笑いしていたのでした。)

嗚呼、男の浪漫は何処を目指し、如何にして躓いたのか。

観念的な言葉を戦わせるというのは、本来、社会問題の複雑な生々しい現場で簡単にまかり通る方法ではなく、例えば純粋な論理性という土俵の上で瑕疵を攻撃し正当性を立証する「学問の流儀」において、現実の諸条件をカッコに入れた限定のもとに成り立ち得る方法であるような気がする。理屈に無理矢理現実を合わせれば窮屈な教条主義になるわけで、哲学のクソみたいに冷酷無比な厳密さに比べると、一見は論理的な体裁をつくろった教条主義は、じつはまったくの理不尽を上手に隠蔽したままで、客観的正義という権威だけを擬態する場合もあるよね。

だから、「選挙」を見たあと、「選挙2」を見る前に参加した高円寺の「ここが変だよ 日本の選挙! 自民に入れないでね 大作戦!!」で、想田和弘監督に聞いてみた。理屈と理屈の戦いで考えれば、原発を続けることも、TPPに今さら参加することも、憲法による権力の制限を手放してしまうことも、とにかく自民党がやろうとしていることは全部オカシイ。だけど選挙戦では、相も変わらず「家内でございます、何卒勝たせて下さいますよう、よろしくお願いいたします」といった話法で情緒に訴えることによって、理詰めの争点がぶっ飛んでしまうのだ。
理屈で以てすべての情緒を排除する頭でっかちなストイシズムも困ったもんだが、情緒で以てすべての理屈をぶっ飛ばすインチキも困ったもんだ。よくは知らないけど、ファシズムのアート(芸術/技法)にも、ポピュリズムの煽動にも、そういうインチキは自覚的に用いられているはずだからね。
どうしたらいいのでしょう、と、想田監督に聞いてみた。観察映画という手法によって、物語性や音楽によって情緒へ訴えかけるという映画的な欲望を意識的に禁じ手にしている(ように見える)この監督から、なんかいい知恵を拝借できたらよいなあ、と思って。
監督は答えてくれた。自民党の仕掛ける情緒への揺さぶり(農村でおばあちゃんに頭を垂れる安倍首相の写真とか)が、緻密な広告代理店的テクニックを駆使するあざとさを指摘したうえで、「情緒に訴えてなおかつ、倫理的である方法」というのはあるのではないか、と。例えば「全日本おばちゃん党」の「はっさく」が、理屈ではなくおばちゃんたちの心を打ったことを挙げ、つまりはだれでもが持っているはずの「真っ当な心」に訴えることは、けっしてインチキではないんじゃないか……といった意のコメントをされた。

論理が偏狭な教条主義もしくは科学的無謬性への過信に堕落しないために、情緒が煽動的なポピュリズムもしくはファシズムに堕落しないために、私たちはどんな言葉を紡げるのか。

そんで、「選挙2」を見たあと、自分はこんなことを書いた。



変わってしまった世界に生きていて、すべてを「考え中」に右往左往するのはしんどい。でも、参院選が終わっても、これからまた何かが起こっても、とりあえずまだその最中にいる以上、どんな方法であっても、何かしら世の中との接点になる言葉を探し続けるしかない。たとえ、ときに滑稽な身振りしかできなくても。


うーん、でも見事にどの映画も、男臭かったなー……という感想でした(表題の説明)。

2013年5月16日木曜日

小さな物語の断片

戦争と暴力について、気味の悪い話が流通しているけど、電波やネットを瞬間的ににぎわせて瞬時に消えてしまう情報のあだ花として、明日には忘れ去られてしまうんだろう。感情的な反応をしても、贋金で買った安物みたいに消費されてしまうなら、それはなおさら気味の悪い話だ。

憲法だの、民主主義の体裁だのまでが、そんな安っぽい値踏みをされている近頃は、いつか振り返ったときに、そういう気味の悪いオバケが巨大化して歴史を呑み込んでしまう時代の端緒として、後知恵で反省されたりするんだろうか。かつて小学生だった自分が、「お父さんはどうして戦争を止められなかったの?」と無邪気に責めたように、のちの時代の小学生が、今の自分たちの世代を嗤うことになるのか。

こんな理屈はおかしい、と、確か花森安治が書いていた昔の小文を探した。たとえ兵隊がどんな非日常の異常な状況におかれたとしても、厳しい自律を貫いた人間は必ずいたのだ、という話を、確か書いていたような気がしたから。
しかし、自分の手元にはどうしても見つからず、確かそんなことを書いていたはずだけどなあ、という記憶だけがあるんだけど。

見つからない代わりに、『一銭五厘の旗』を読み返したり、『暮しの手帖』300号記念号を読み返したりして、「予防原則」という言葉がなかっただろう時代のこんな言葉を見つけて、あらあらあら、と悲しい気持ちになった。

この七つの事件*は、起った年代や場所や原因はまちまちだが、しかしどの事件にも共通して流れているものが一つある。人間の生命を軽く考える風潮だ。政府は、この事件の随所で、疑いだけでは禁止できない、といっている。人間尊重の考えからは、ゼッタイに出てこない発言である。もしその考えがあるなら、必ず、疑いのある間は許可しない、という言葉が出てこなければならない。人間の生命をまもるためには、どんな犠牲も払わねばならない、とする人間尊重の考えが、ついに日本では育たないのであろうか。
*黄変米、砒素ミルク、水俣病、サリドマイド、タール系人工着色料、サッカリンなど人工甘味料、有機リン系農薬
「この大きな公害」(1967年9月)
……そだたないのであろうか?
この文章が刊行された数ヵ月後に生まれた私は、もう45歳の日本人であります。 

◆◇◆

子どものころの家には、継ぎ足したような一部屋の二階があって、祖母が買いためていた『暮しの手帖』は、物置状態のその部屋にあった(『太陽』や『銀花』は、一階の廊下の本棚。どういう分類だったのかな?)。一階にある、真面目な子ども向けの本や、親たちが最近買った本に飽きてしまうと、小学生の私は二階の本を漁るようになった。
父親ときょうだいたち全6人が成長の過程で読み捨てていったイイカゲンで雑多な本の山の中にあって、いちばんドア際の本棚にあった祖母の『暮しの手帖』は、ハンカチで作るお人形のドレスや、珍しいご馳走の写真などがきれいだったから、大して字も読めない子どもにはちょうどいい暇つぶしになった。毎号に写真や絵を変えた表紙のデザインや、多色刷りで工夫を凝らした諸統計のインフォグラフィックスなんかも、子どもには面白かったんだろうね。
そのうちにもう少し字が読めるようになると、ビスケットに加えた着色料を白い毛糸で抽出してみせる商品テストの記事や、宝塚の「ジャンゴ」という芝居がすごかったという劇評や、バラ水(自作のお化粧品みたい)の作り方とか、「ぼくは、もう、投票しない」なんて花森の論説なんかも、子ども時代にわくわくして読んだ文章として覚えている。

子どもなんて、いんちき臭い権威みたいなものには簡単に反発する時期があったりするから、花森は、私の分かりやすい「信じてもいい大人」だった。だらしない政府とも、金儲けばかりの企業とも、きちんと喧嘩してくれる、よい大人として。だってさ、公害だの、醜悪なデザインの高価な家電だの、そんな話を幼いなりに実感していたら、どうしたって「悪い大人」がどこかにいるとしか、思えないでしょう?
「あら、あの人スカートはくんだよ、あんたそういう男がいいの?」と母にからかわれた。「ああいう理屈が正しいなんてふうに凝り固まると、あなた嫌な人間になるわよ」とも。
12歳のときに、古い家を建て替えることになって、第一世紀(判型が小さいやつ)から揃っていた祖母の『暮しの手帖』は、そのときに全部捨ててしまった。
確か白地に赤いバラがぽかんと浮かんでいた『戦争中の暮しの記録』だけは残せばよかった、と祖母が何度も嘆いていたから、それも捨てちゃったんだろうな、多分。

◆◇◆

本当は我が家にあった貧しい本棚の思い出なんてどうでもいいんだけど、自分が読みたくて買ったわけではない本というのは、前の世代からの地味な継承として残っていたということは事実。
で、『暮しの手帖』のバックナンバーをうちが捨てたのは1980年頃というのが、記録したいことの一つ。
さらに言えば、300号記念号(1997年)は、花森という(編集者としては全く民主的ではない)、雑誌のカラーを定めた人が死んでしまったはるか後に、その歴史をまるで他人事みたいにしか語ることができなかった駄目な編集だなあ、ということに気づいたのが昨日の収穫。

日本の戦中から戦後への歴史と、福島の事故を経た今日と。

昭和の庶民の一風景であった、自分の家の小さな物語と。

で、今は2013年(Jリーグ20周年おめでとう!)なのだが、何だかなあ。
沖縄の復帰の意味はだれも振り返ることなく、敦賀は活断層との見解に電力会社は抗議し、戦時中の性暴力の正当化は饒舌な詭弁でただの噂の種に消費されて。

そんな今日です。









2013年5月9日木曜日

24年前


あやしい諸々の雲行き、なかなか心が晴れない。いちばんいい季節なのに。
酔っ払ってサカナクションを聴いていたら、急に昔の景色を思い出した。押入れの奥に頭を突っ込んで、21歳の言葉で記した19歳の景色引っ張り出した。そのリアルと、現在のリアルと、地続きのはずなのに分断があって、それでも確かにこの拙い言葉は自分の言葉だって知っている。
そんで80歳まで生き延びたとしても、老いて衰えた足で、この景色の先に歩こうとするんだろう。

◆◇◆

「青葉の下の十九歳」

かなしい夢をみていた
青葉の下にいて、木の葉ごしに見上げると
空がただ広くて
私の上を過ぎる風は
はるかな昔から、とりあえず明日へと吹き抜けていく

十九の私は光の中で
ふりつもるゆううつを深呼吸して
あしのうらは土の上に

遠い遠い街が私を呼ぶ
この世界に
もうおまえの家はないのだと
遠い遠い街が私を呼ぶ
だけどそこへたどりつく道を
私は覚えていない

あなたは私の名前を呼んで
少しずつ少しずつ
小石の山を崩して
ことん、と音をたてて、空を見た

それは確かにあなただったか
だけどちっともあなたじゃなかった
私が私だというそのことぐらい
不確かな確かさだった
その意味を私考えたよ
だけど何も分からなかったよ

もう思うまいと心は思う
決して涙を流すまいと泣く心

かぜがふくよ
かぜがふくよ
かみをそよがせてかたにふれたよ

青い青い青空
ただ私を見ていた

1989624日)



2013年4月3日水曜日

春まだ浅い そのころに




Croppy Boy

(=1798年のアイルランド独立闘争に加わった青年たちに与えられた蔑称…らしい)


春まだ浅い そのころに
鳥はさえずる やさしい歌を
木々の間に間に 節を変え
歌うは われらアイルランドの自由の歌

夜もまだ更けぬ そのころに
地主の騎兵に一戦を挑まれ
この地主の騎兵が 災いのもと
コーンウォールの領主に捕らわれた俺

俺が放り込まれたのは 番所
裁きの場所は 屋敷の客間
刑が告げられ 青ざめた
ダンキャノン送りと聞かされて

父さんの家の前を 過ぎるとき
ウィリアム兄さんが戸口にいた
老いた父さんが戸口にいた
そして優しい母さんは 頭を抱えて泣いていた

ウェクスフォード通りを過ぎるとき
俺のいとこに出くわした
俺を売ったのは このいとこ
たかが1ギニーに忠誠立てて 俺の命を差し出した

メアリー姉さんは報せを聞いて
礼服姿で駆け下りて来た
500ギニーだろうが 投げ打ってもいい
ウェクスフォードの街で きょうだいが無事でいられるなら

ウェクスフォードの丘を登るとき
泣きに泣いた俺を 咎めてくれるな
振り返っても 行方を見ても
優しい母さんは もうどこにもいなかった

高い壇上に乗せられたとき
老いた父さんが 傍にいた
老いた父さんは 顔を背けた
逆賊の小僧など知りません と

この若者が死んだのは ダンキャノンの地
そしてダンキャノンの地に 若者は眠る
ここを通る善男善女よ
この逆賊の小僧のために 祈っておくれ

***

詳しい歴史的な背景はよくわからんのですが、小学生のころに通っていた英語サークルの教材『Songs of Folks』とやらにこの歌がありまして、当時からわけもわからず好きだった歌です。そんなわけで、訳には間違いがあるかもしれません。今でも時々鼻歌で口ずさんでいますが、メロディはこのバージョンとちょっと違っています。
自由を夢見る季節は、やっぱり春が似つかわしい。枯れる命と、倒れてもまた芽吹く命と。

2012年10月26日金曜日

安寧の気持ち


「彼ら原発に異を唱える人の生活が自分を惹きつけはしまいかと、案じ恐れるような具合だった。反原発デモなんかに行く人の生活が、人生のあらゆる喜びの否定を必要とする生活のように想像された。しかし彼はこの喜びに生の本質を置いていたので、これを拒否することはできなかった。彼はデモに行く人を非難し、その非難を尊重した。彼はそうした非難の種のつきるのを恐れて、彼らの欠点を発見する機会を探し始めた。」

「いつどこでデモに出会った場合にも、彼は即座に非難の材料を見つけ出した。彼らがサウンドカーに発電機を搭載しているのを目撃すると、彼はすぐさま自分の心に、またときどきは彼らに向かって、君たちは原発はいらないと言いながら、そうやって無駄な電気を使い、結局は電気の恩恵から逃れられないのではないか、君たちは自分をもわれわれをも欺いているのだ、とこう言った。そして彼らがなぜ原発に依存しない電気を正当であり必要であると認めたかという理由について、彼らと論議しようとしないのだった。」

「またお洒落なデモに出会わした場合には、まだそういう美意識を持ち続けていられることを非難した。ユリウスには反原発デモ参加者が罪深い存在であることが必要なのだが、しかし反原発デモ参加者は決して自己の罪過を否定しなかった。したがって、彼らはユリウスの目から見ると、みんな罪深い存在に見えるのだった。彼ユリウスの眼から見ると、反原発を唱える人はみんな口先ばかりで実行の伴わない、偽善者、詐欺師にほかならなかった。こう見えても僕は、言行を一致させているが、君たちは口先と行いがうらはらじゃないか。――こう彼は言うのだった。そして自分にその一事を、なるほどそうだと思いこませるに及んで、はじめて平安な気持ちになり、従前どおりの生活に終始するのだった。」

以下、中略、中略、いろいろあって、めでたしめでたし。

胸糞悪い下品な言葉がTVから聞こえてきたので自棄酒を飲んでいたら、「秋になって部屋にゴキブリが出たよ」という友人の嘆きの電話が長話になった。何か気の利いたことを書くつもりが、すっかり調子が狂ってしまったので、ブックオフで100円で買った古本の抜き書きを改竄して記す。

2012年10月12日金曜日

景色


大人になること、よくわからないから、当てずっぽうの想像をしながら、こんな曲を聴いてた。15歳で家を出て、遠くの学校の寮で暮らしながら、私。


  
構図と色彩構成がへたくそな18歳は、結局絵を描き続ける根性もなく、中途半端な大学生になった。ある日夜空を見上げたら、鈍色の厚い雲をぼうっと照らして、天使が飛び回っていた。輪郭のおぼろな、発光して輝く、ぐるぐると回る、いつまでも。
自分の頭が変になったのか、それとも、ついに世界の終わりを告げるラッパとやらが吹き鳴らされるのか。
ぽかんと口を開けて空を見ていた。
どんな経緯か忘れたが、派手好きなパチンコ屋さんが設置した、サーチライトの客寄せだったことを、後に知る。
低く垂れ込めた雲に不吉な天使を舞わせたのは、つまり、ヨハネの幻視ではなく、下世話な町田のパチンコ屋さんだったというオチです。

そんで、つい先週のこと。

物騒な遺伝子組み換え実験圃場があるというので、こっそり見に行くツアーに参加した。事前の知識も大してなかったが、15歳まで暮らした街のごく近所にあるというから、twitterでのお誘いを知って、見に行ってみたくなった。
町外れのバス亭から、畑や田んぼの続く町並みをひたすら歩く。
田舎の空は広い。遠くから雨が近づいてくるのがわかる。

細い道が抜けていく集落には、どの家にも広い庭があって、立派な(なんの種類かもわからないような雑多な)雑種の犬が長い鎖につながれている。よそ者のわれわれに、わんわんと、力いっぱい吠え立てるのが健気でつい、うれしくなって笑ってしまった。
路地で遊ぶ子どもたちと一緒に駆け回っている犬。田んぼのトラクターに付いて歩く大きな白い鷺。コンクリート補強のない用水路では、雑草がはびこる。季節がよければ、きっとミゾソバやニワゼキショウが見られそうだ。
子どものころには近所にあって、いつの間にか消えてしまった景色。

実験圃場は、ガードマンに守られて高いフェンスの中にあるわけでもなく、自家用の小さな畑をめぐらせた農家にあっけらかんと隣接していた。TPPの脅威の最前線、諸々の騒動の火種のはずの施設は、たしかにネットに覆われて警備会社のシールなんかも貼られていたものの、ここいらのガキならいくらでも潜り込んで悪さができそうな、凡庸な日常のなかにひっそりと紛れていた。
「花粉の飛散とかの実害は、大丈夫なんですか」と私。
「いちおう、穂が付く前に刈り取っているみたい」と案内のかた。
GMは行っていないが同じ企業の敷地だという田んぼの畦に近づいたら、踏み出した足元から蛙がぴょこんと跳ねて、田に残る水に飛び込んだ。
「このお米は、とりあえず、なかなかおいしいそうですよ」と皮肉な解説を伺う。

何が起きているのか、企業は何をしたいのか。
たぶん、ここに住む、だれも知らないんだろう。
私にもわからなかった。

「てんしがそらをまう
 あくまがてをふるよ
 ごらんすてきだよ けしき」

バスで市街地まで戻って、視察団一同、実家の近所で酒を飲んだ。初対面の博識の人たちと、たまたまこんな景色のなかで育った私と。未来を憂う言葉と、酔いの回りの速い純米酒。

結局、深酒になって、またメガネを失くした。
去年から3個目の紛失で、もう替えがないや。

2012年9月13日木曜日

ある時代のスケッチ


もろもろ忙しくて、なかなか、まとまった時間が取れません。
1年以上もこんな暮らしを続けていると、いいかげん煮詰まってくるわけで、脳みそが全部蒸発してしまわないよう、身体の関節がこわばってしまわないよう、振り返ったり背伸びしてみたり、とにかく勢いだけでは身がもたないね。

1980年代の始まり、中学生になるころか。
ぼんやりと、世界の破滅を案じていて、無力だった。新聞を読むたびに、泣いたりしてた。
核戦争の脅威なんて、もうだれも気にしないけど、あのころ、たしかにそんな予兆に怯えていた子どもは、自分だけじゃなかったはず。

というわけで、そんな時代に流れていた音。
中学生は、泣くしかないってば。

Melon "Final News" (1982年)


Salon Music "Paradise Lost"(1984年)

2012年7月10日火曜日

住んだことのない国の、会ったことのない人

カート・ヴォネガットの葬儀で会葬者に合唱された3曲。




*"I'll fly away", "Down by the Riverside", "Amazing Grace" 

2012年4月16日月曜日

女の子になりたい?



リボンやフリルに埋もれて、おしとやかに窓の奥で、チューリップに水をあげているだけでもよかったのかもしれません。
難しいことはわからない、と、ばら色のくちびるに意味深な笑みを浮かべて、チョコレートボンボンを口の中で転がしてみるとか。オレンジの香りのするお茶を、目を閉じて飲んでみるとか。

どうして、こうなっちゃったんだろう。

サファイア姫は天使のいたずらで、男の子の心を持って生まれてしまったそうです。手前の責任を取るために地上に降りてきたのがチンクなんですが、騎士として戦うサファイア姫から男の子の心を回収してしまったら、急に剣先も鈍ってしまう。どうしたら、いいんだろう。このまま男の子の心を持ったまま、強いお姫様で、人々のために戦うほうが、正しいんじゃないか。チンクは悩みます。

私の見た夢は、秘密です。
だれにも言わない、秘密です。
ほとんど、ばれてても、秘密です。

2012年4月15日日曜日

飛び立とうとするけれども



死ぬまで あなたを忘れないわ
夜空を見上げて思い出す

さよならを言う前に抱きしめて 強く
約束よ いつの日かまた会いましょう

(と、勝手に日本語で、歌う。酔い覚ましの帰り道。)

2012年4月10日火曜日

繭のような場所から[2]



先日行ってきた小出裕章氏の講演について、書きかけて放置しておいたメモを今更ながらでもまとめようと思っているのだけど、なんか、意外とこの寸劇で、最後ちょっとホロリとしたりして、それでかなり何かが伝わるような気がするね。
だから、以下は蛇足な感じです。

226日、小出裕章氏を迎えた「原発を考える町田市民の会」主催による「すべて知りたい原発のこと」に行ってきた。氏の講演が第一部で、井野博満氏がコーディネーターを務める、市民との対話が第二部。
学生が大して授業に出ないことで定評のある和光大学(20年前はね!)に、いつの間にか作られていた小ぎれいな大教室が会場だったが、満員のため、別の大教室で中継を見ることに。学生はあまりいない感じで、会場は中高年がほとんど。デモの参加者なんかとは大分雰囲気が違う。それでも、真剣に耳を傾ける姿からは、気圧されるような切迫感が漂ってた。ああ、こういう大人たちもたくさんいて、みんな原発をなんとかしたいと思っていたんだな、と驚く。

二時間ほどの講演で、原発の発電原理の解説と事故過程の分析、放射性物質の飛散状況とその影響予測など、技術的な話が前半。科学者である小出氏の話なのだから、そのような内容で一貫するのだろうと思っていたが、後半は「変わってしまった世界で、これからどうやって生きていくのか?」という問題提起に。

氏の主張のポイントは二つ。
●子どもを被曝から守りたい
大人が作ってしまった原発に子ども自身は責任がないのに、放射線に対する身体的な感受性は大人よりも高いという悲しい現実を、どうしたらいいのか。
●第一次産業を守りたい
過度のエネルギー浪費社会の象徴が原発である。そんな社会は持続可能ではない。
これを実現するための方法として、氏はあえて極端な方法――食品の汚染実態を明らかにしたうえで、汚染の度合いに応じて、高い値の出た食品から年齢順(感受性が低い順)に消費することにして福島の農業を守ること――を提起した。

思わず「これって、つまりレトリカル・クエスチョンだよね?」と友人に言ったら、「そうじゃないよ。小出さんは本気で言ってるんじゃないかな」というのが友人の見解。ネットでもすでに見聞していた提案だったが、あえて極論を投げることによって、彼が言うところの「騙された大人も各自が果たすべき自己責任」をそれぞれに自問してほしいと願っているように、自分には感じられた。
「騙された責任を回避してしまったら、また騙されてしまう」と、小出氏は言った。

以降、福島から避難されているお母さんが語る家族離散の悲しい話や、会場の質問などを交えて、対話は進んだ。全部を再録することはきっと誰かがやっているだろうから、主なポイントだけ。

瓦礫処理の問題について氏の意見は、現存の焼却施設で処分しろという国の方針は正しいことではないが、これ以上放射性の瓦礫を福島に放置することは、福島に暮らす子どもの健康を考えれば被曝を進めることにもつながるので、悲しいことだが福島の汚染地に専用の焼却施設を作るしかないことになるだろう、とのこと。
そのうえで、現在の政府の方針に沿うのであれば、各地の自治体の焼却施設の排気系に適切なフィルターを設置し、放射性物質の漏洩がないかきちんとテストを行って、焼却するという方法も可能だとのこと。フィルターを適切に運用管理すれば、うまくいくだろうという見解だった。ただし、焼却後の灰については、各地で保管することは不可能なので、東電に返却して福島の事故処理用のコンクリート基材にでもするしかないのではないか、と。

「なんで、原発はよくないってわかってたのに、止められなかったんですか」と、学生がストレートに尋ねる。「どうやったら、止まるんですか」。
「どうしたらいいのか、わからないのです。自分はやってきたつもりだけど、行政も国も動かなかった。敗北の歴史です。絶望することもありますが、絶望したら負けになりますから」と、あの声で答えた。

「お金持ちなら、安全な食べ物を選ぶことができるかもしれないけど、私たち学生は貧乏で、食べ物なんか選べません。安いものしか買えません。学生は大変なんです。遊ぶのにだってお金はいるし。だから、バイトとか忙しいし。困るんです」という、物怖じしない学生の無邪気なコメントに、会場の年寄りからは失笑が漏れたけど、卒業生の私は、和光大生の明るい生意気さが健在であることに、なんとなくホッとした。
小出さんも、井野さんも、そんな学生を咎めることもなく、真摯に答えてくれた。
それは、とても、うれしかった。

大人の金儲けの都合なんか、知らない。
世の中が正しいということは、どうもうさんくさい(ただしソースはない)。
自分の感性に疑いを持ったら、脆いアイデンティティなんか崩れてしまう。
だから、とにかく生きたいように生きてみるしかない。

そういう子どもを許してくれる、繭のような場所で、私は育った。
やがて、本当に自分の足で立って生きていくことが、そんなに気楽なものではないと知る日がきたとして、それでもやっぱり、生意気なまま、貧乏なまま、生きてる。

そんなの理想論にしかすぎないよ、大人の世界はいろいろあるんだよ、なんて、口が裂けても言わないよ。小出さんの言う「騙された者の責任」の果たし方を考えながら、優しい繭を失って、剥き出しの赤裸の皮膚を晒しながら、先に進んでいくしかないんだものね。

2012年3月27日火曜日

Life goes on although strange things happen

どうせなら、許せることが多いほうが、鷹揚に生きられそう。
「こだわり」とか、そういう言葉は好きじゃなくて、清濁併せ呑むってのが大人ってもんよ、と思うんだけど。
喧嘩のスキルに欠けるのも、年上の世代に呆れられるところ。それでも、空気なんてものを読まなきゃいけないとかいう若い人たちよりかは、もう少し勝手なふうに育ってきたかもしれない。

日本に遅れて入ってきた構造主義とかの上っ面を誤解して、あらゆるイデオロギーを漂白できるってお目出度く信じてた思春期、つまんない「相対絶対主義」のジレンマで頭痛くなったさ。
そのあげくが、このご時勢。
それは、いい加減だった自分のせいなんだよね。

今日は官邸前の再稼動抗議に、ぼんやりと枯れ木も山の賑わい。
お爺様、お婆様の勢いに気圧されて、もごもご言葉を濁しつつ。

それでも、いろんな事情がぶつかる世界で、自分なりの責任の果たし方を失敗しながら。
答えを出さないことがオシャレだった時代は、終わってしまったんだもの。
ねえ。



「いのちのみちをあゆめ」

2012年3月5日月曜日

暮れゆく世界で

星に願いを、とか言うじゃない?
たくさん泣いたぶん、あとは祈ることだけってこともあるしね。
いま、あなたの隣でいびきをかいて眠る人を抱きしめよう。
世界が終わる前に。
肩を寄せ合って泣きながら、その日を無力に迎えるのはいやだから、いま、あなたにキスをしよう。



まあ、それも正直、どうだかね。
諦めたわけじゃない。
ともあれ、今夜はおやすみなさい。

2012年1月17日火曜日

WW "MLK" D?

まあ、元気を出そう。。10年かかった、か。。。

2011年12月27日火曜日

The End of the World

(Skeeter Davis: The End of the World)



昼の部に同行した友人が先に帰り、国立駅前に独りで残されてみると、人通りの多い華やかなクリスマスの街には、何事もなくイルミネーションがきらきらと瞬いている。
何となくこの曲が浮かんで、ぼんやりと口ずさんでた。