憲法だの、民主主義の体裁だのまでが、そんな安っぽい値踏みをされている近頃は、いつか振り返ったときに、そういう気味の悪いオバケが巨大化して歴史を呑み込んでしまう時代の端緒として、後知恵で反省されたりするんだろうか。かつて小学生だった自分が、「お父さんはどうして戦争を止められなかったの?」と無邪気に責めたように、のちの時代の小学生が、今の自分たちの世代を嗤うことになるのか。
こんな理屈はおかしい、と、確か花森安治が書いていた昔の小文を探した。たとえ兵隊がどんな非日常の異常な状況におかれたとしても、厳しい自律を貫いた人間は必ずいたのだ、という話を、確か書いていたような気がしたから。
しかし、自分の手元にはどうしても見つからず、確かそんなことを書いていたはずだけどなあ、という記憶だけがあるんだけど。
見つからない代わりに、『一銭五厘の旗』を読み返したり、『暮しの手帖』300号記念号を読み返したりして、「予防原則」という言葉がなかっただろう時代のこんな言葉を見つけて、あらあらあら、と悲しい気持ちになった。
この七つの事件*は、起った年代や場所や原因はまちまちだが、しかしどの事件にも共通して流れているものが一つある。人間の生命を軽く考える風潮だ。政府は、この事件の随所で、疑いだけでは禁止できない、といっている。人間尊重の考えからは、ゼッタイに出てこない発言である。もしその考えがあるなら、必ず、疑いのある間は許可しない、という言葉が出てこなければならない。人間の生命をまもるためには、どんな犠牲も払わねばならない、とする人間尊重の考えが、ついに日本では育たないのであろうか。
*黄変米、砒素ミルク、水俣病、サリドマイド、タール系人工着色料、サッカリンなど人工甘味料、有機リン系農薬
「この大きな公害」(1967年9月)……そだたないのであろうか?
この文章が刊行された数ヵ月後に生まれた私は、もう45歳の日本人であります。
◆◇◆
子どものころの家には、継ぎ足したような一部屋の二階があって、祖母が買いためていた『暮しの手帖』は、物置状態のその部屋にあった(『太陽』や『銀花』は、一階の廊下の本棚。どういう分類だったのかな?)。一階にある、真面目な子ども向けの本や、親たちが最近買った本に飽きてしまうと、小学生の私は二階の本を漁るようになった。
父親ときょうだいたち全6人が成長の過程で読み捨てていったイイカゲンで雑多な本の山の中にあって、いちばんドア際の本棚にあった祖母の『暮しの手帖』は、ハンカチで作るお人形のドレスや、珍しいご馳走の写真などがきれいだったから、大して字も読めない子どもにはちょうどいい暇つぶしになった。毎号に写真や絵を変えた表紙のデザインや、多色刷りで工夫を凝らした諸統計のインフォグラフィックスなんかも、子どもには面白かったんだろうね。
そのうちにもう少し字が読めるようになると、ビスケットに加えた着色料を白い毛糸で抽出してみせる商品テストの記事や、宝塚の「ジャンゴ」という芝居がすごかったという劇評や、バラ水(自作のお化粧品みたい)の作り方とか、「ぼくは、もう、投票しない」なんて花森の論説なんかも、子ども時代にわくわくして読んだ文章として覚えている。
子どもなんて、いんちき臭い権威みたいなものには簡単に反発する時期があったりするから、花森は、私の分かりやすい「信じてもいい大人」だった。だらしない政府とも、金儲けばかりの企業とも、きちんと喧嘩してくれる、よい大人として。だってさ、公害だの、醜悪なデザインの高価な家電だの、そんな話を幼いなりに実感していたら、どうしたって「悪い大人」がどこかにいるとしか、思えないでしょう?
「あら、あの人スカートはくんだよ、あんたそういう男がいいの?」と母にからかわれた。「ああいう理屈が正しいなんてふうに凝り固まると、あなた嫌な人間になるわよ」とも。
12歳のときに、古い家を建て替えることになって、第一世紀(判型が小さいやつ)から揃っていた祖母の『暮しの手帖』は、そのときに全部捨ててしまった。
確か白地に赤いバラがぽかんと浮かんでいた『戦争中の暮しの記録』だけは残せばよかった、と祖母が何度も嘆いていたから、それも捨てちゃったんだろうな、多分。
◆◇◆
本当は我が家にあった貧しい本棚の思い出なんてどうでもいいんだけど、自分が読みたくて買ったわけではない本というのは、前の世代からの地味な継承として残っていたということは事実。
で、『暮しの手帖』のバックナンバーをうちが捨てたのは1980年頃というのが、記録したいことの一つ。
さらに言えば、300号記念号(1997年)は、花森という(編集者としては全く民主的ではない)、雑誌のカラーを定めた人が死んでしまったはるか後に、その歴史をまるで他人事みたいにしか語ることができなかった駄目な編集だなあ、ということに気づいたのが昨日の収穫。
日本の戦中から戦後への歴史と、福島の事故を経た今日と。
昭和の庶民の一風景であった、自分の家の小さな物語と。
沖縄の復帰の意味はだれも振り返ることなく、敦賀は活断層との見解に電力会社は抗議し、戦時中の性暴力の正当化は饒舌な詭弁でただの噂の種に消費されて。
そんな今日です。
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