閉鎖された遊具 |
自粛要請という言葉自体が矛盾しているのだが、なんとなく人々は外で遊ぶのも気後れして、殺気立って買い物している。トイレットペーパーの品不足は急に解消した。納豆も戻りつつあるが、今度は小麦粉が消えている。みんな何をしてよいのかわからず、とりあえずできることが買い物くらいしかないのだろう。消毒用アルコールとマスクは相変わらずほぼ品切れのまま。
そんな東京の連休の谷間に、フェイスブックで回ってきた「ブックカバーチャレンジ」の7日間の記録を再録する。1冊ごとに誰かにバトンを回すルールだけど、私にはそんなに友だちがいなかったから、これは「盲腸線」になった行き止まりの支線の終点。
【2020/4/30】1日目『ゆうかんな女の子ラモーナ』
『チョコレート戦争』(※友だちが私に回してくれた際の選書)で思い出したこと。大人の押し付けてくる不条理な決めつけを拒否する……というのは、そういえば子ども時代の自分にはとても大切な主題でした。大人と子どもの力関係は圧倒的に不平等で、大人の権力の前に、子どもは圧政下の細民のごとく無力なのです。そんなのフェアじゃない!と憤慨するのですが、「つべこべ屁理屈を言うんじゃありません!」と一蹴されてしまう毎日。この力関係を逆転することが今は無理なのだとしたら、せめて子どもの頃の悲しみや悔しさを絶対に忘れない大人になってやる、と自分に誓ったのです。つらかった日々をのほほんと懐かしんだりしたら許さないからな、と、拙い字で未来の自分に宛てた言葉が、私の日記帳には残っています。
『ゆうかんな女の子ラモーナ』(Beverly Cleary作、松岡亮子訳、学習研究社刊)は、そんな小学校2年生の自分にとって唯一無二だった物語。
舞踏会に招かれるお姫様じゃなくても、魔法が使える伝説の少年じゃなくても、自分の頭で納得いくまで考えたり、笑われたって毅然として主張したりしなきゃいけない重要な場面が暮らしにはいくつもあって、そういう日々の冒険に「勇敢」に立ち向かう小学生ラモーナの悲喜を描いています。
原題は『Ramona the Brave』とのこと。すごいタイトルです。原作は1975年刊行、日本での刊行が1976年なので、日米の違いはあれど生活描写がリアルな感じなんですね。人気の「ヘンリーくん」シリーズの姉妹編になりますが、私は断然ラモーナです。
【2020/5/1】2日目『The Stray Shopping Carts of Eastern North America: A Guide to Field Identification』
お年玉を全部持って、空のリュックを背負って神田に行くのが正月行事になった高校生くらいから、私の書棚は無秩序に膨張し始めました。本屋や古書店でバイトをすると、社割と客注というドーピングによってさらに箍が外れた。その後も稼ぎが入れば本を買い、稼ぎがなければブックオフで100円の本を漁る……と、欲望の限りを尽くすことに。
しかし、溢れた本を送り付ける「実家という名のブラックボックス」にも限りがある。家屋敷と蔵書を子孫代々伝えられる人はごく少数で、自分はそういうご身分でもありません。最近の引っ越しを機に、六畳一間の安アパートの床まで埋め尽くしていた雑多な本をついに数百冊処分しました。精鋭だけ残したつもりなんだけど、あれだね。柿ピーのピーナツがいくら大事に見えても、ピーナツだけ集めたら、それはもう柿ピーじゃないから。やっぱり悲しいです。
というわけで、どれだけ欲にかまけて駄本を貪っていたかという例として、2日目は『The Stray Shopping Carts of Eastern North America: A Guide to Field Identification(北米東部の逸出ショッピングカート:野外同定の手引き)』(Julian Montague作、Harry N. Abrams刊)。栄えある2006年「Diagram Prize for Oddest Title of the Year」受賞作。その名のとおり、変な表題の本に与えられるイギリスの賞なんですが、仕事絡みで当時そのニュースを読んで、つい。
各地に生息する「迷えるショッピングカート」の生態写真が満載。わかりやすいカラーチャートで簡単に種を同定できる便利なフィールドガイドです。まあ、こういう本は一生手元に置いておこう。
【2020/5/2】3日目『うるしの話』
『うるしの話』(松田権六作、岩波書店刊)も、同様に頭のノイズを消せる本。著者は7歳から漆芸の修業をして、東京美術学校の教授にもなった「漆聖」。技法の話も科学の話も面白いし、語り口もよい。
とにかく漆は丈夫だという説明があるのだが、なんで実家のお正月の重箱は洗剤使うなとか、絹布で拭けとか、おっかなびっくりだったのか不思議。それは本物ではなく安物の漆器ですぞ、ということになるのかな。南洋航路の豪華客船のテラスのドアを漆で仕上げて、ほら潮風にもびくともしない……という話があって驚く。本当なんだろうか。気になります。
【2020/5/3】4日目『機械と芸術との交流』
「実家という名のブラックボックス」が永遠ではないことを2日目に記したが、飽和状態の実家から発掘した『機械と芸術との交流』(板垣鷹穗著、岩波書店刊、1929年)を4日目に。
エンジニア(昔の用語では設計技師)であまり人文系には関心がなかったと思われる祖父の意外な蔵書で、ロマンティシズムから解放された合理的な機械の美をよしとする不思議な檄文の連続である。何だこりゃ、と面白半分に読んでいたら、リシツキーやマレーヴィッチ、メイエルホリドなどというロシア・アヴァンギャルドの作家や、バウハウスの建築などが出てきて、そのあたりの作品が早くから知られていたことがわかった。ジガ・ヴェルトフの「映画眼よりラディオ眼へ」全文所収。キノ・グラースざんすね、つまり。
ブックデザインも凝っているのだが、東洋の小国にアヴァンギャルドを紹介しようというテンションの高さが何となく気恥ずかしい本。歴史でしか知らなかったことの、昔の受容の雰囲気が垣間見えて面白いです。
【2020/5/4】5日目『戦車と自由 チェコスロバキア事件資料集』
『戦車と自由 チェコスロバキア事件資料集』(みすず書房編集部編、みすず書房刊)。チェコスロバキアで「プラハの春」から1968年のソ連侵攻に至るさまざまな資料を集めたもの。事態の推移にかかわる文書や記事から、占領下の街の落書きや小咄まで収めてある。刊行されたのが1968年11月という速報性がすごい。インターネットは疎か、テレビの衛星生中継すら覚束ない時代に、生々しい情報の結節点たるべく、書籍という媒体にどれだけの知的労力や資源が集約されていたのだろう……と気が遠くなる。
政治家や官僚のものだった社会を、自分たちの社会として取り戻そうとする市民たちの知恵と工夫と高揚感。この本をわくわくして読んだ頃には遠い国の歴史的な出来事でしかなかったことが、3月11日以後に「路上に出た」途端に、いろいろ突然リアルになった。この本のように、きちんとした記録を残せばよかったと思います。
そして、東京に戦車は侵攻してこなかったけど、何だろう、この無力感は。息をひそめてこっそり語るアネクドートの諦念まじりの笑いさえ、いまの日本では難しいみたい。不屈のプラハ市民みたいになれるかな。ならなきゃな。若きハヴェルだってがんばってたんだ。がんばらなきゃ、いけないんだけど……。
【2020/5/5】6日目『はるかな国 とおい昔』
こどもの日の6日目は『はるかな国 とおい昔』(W.H.ハドソン著、寿岳しづ訳、岩波書店刊)。
郷愁をもって語る子ども時代というのは、どの程度都合よく美化されているものか分からないけど、植物や動物とのかかわりを、幼い不安や驚きのまなざしを通して綴った美しいお話。ダレルの『虫とけものと家族たち』と同じく、生きものが親しい友である日々は、ユートピア的でありながら、子ども時代特有の静かな孤独にも裏打ちされている。
ダレルもハドソンも、まあ西洋人の植民地での子ども時代の回顧ということになるから、無垢な振りをするのも大概にしなさいよ、というのが現代の評価になるかもしれない。
でも、「よそ者」として自我を獲得せざるを得ない子どもの話に肩入れしてしまう癖が私にはあるみたい。大好き。
【2020/5/6】7日目『エンジン・サマー』
最終日は『エンジン・サマー』(ジョン・クロウリー著、大森望訳、福武書店)。
ビザンティンってどこだっけ、ゲルマン民族大移動って何だっけ、などという頭の悪い会話をしていた連休の最終日。歴史として記された昔のこと、実際にはどんな暮らしがあったのだろう。文字資料を失って滅びた世界で細々と生き残った人間が口伝えする混沌の歴史がこの小説の仕掛けだが、あまり筋を説明すると野暮になる。
おそらくまた、世界は後戻りできない変わり方をするでしょう。今までに書かれたたくさんの「世界終末もの」の小説でも想像できなかったような方向へ。新しいことに順応する力を失いつつある老いた自分がこの先の世界で生き延びていけるのか、あまり自信はありません。
単純なスローガンや、即効性のあるノウハウではない、「希望」の長い長い道のりを描くことは、文学にしかできないことだと思います。
それは武器にはならないかもしれないけど、耐水マッチくらいの頼もしさはあるのではないでしょうか。これから、沈む船から積み荷を捨てながら辛うじて生きるような未来が訪れても、いつかポケットにしまっておいたマッチに救われる日がくるかもしれません。
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