いえ、商業主義の話でもなく、宗教的な対立の話でもなく。
あれだ、ご家庭のクリスマス電飾ですよ。
あれに出会うたびに、頭の固い意地悪なじいさんのように、私は腹を立てている。
電気のムダが嫌だとか、そういう話でもありません。
クリスマス嫌いじゃないよ。むしろ、大好き。ガラス製の小さなツリーや、ちょっと雛人形チックな聖家族の飾り物(四谷のカソリックの本屋さんで買った不思議な代物)などを部屋に飾ったりして、うかれてるし。ケーキを作って配りまくったこともあるし、大学の礼拝に神妙な顔をしてこっそり紛れ込んだりもしている。
最初に自分の敵意を自覚したのは、十年くらい前、「クリスマス電飾を競い合う家々」で有名な、とある新興住宅地が近所だからと、友人が見物に連れていってくれたときだった。数年前は山野だった場所が切り開かれて郊外の住宅地になり、巨大なショッピングセンターがその中央にある。どれも似たような瀟洒なお宅が立ち並び、この季節になると家々はいっせいに……外観をイルミネーションで飾るのだという。
「何じゃこりゃー。気持ち悪いなあ」と私。
「え? きれいでしょ。テレビにも取材されたし、遠くから見に来る人もいるくらい有名なんだよ」と友人。
「うー 胸糞悪い。どうせこいつらみんな若い夫婦ばっかりで、女房のシュミでアーリーアメリカンな家具とかで内装統一して、休日になるとブランド物のペアルックで買い物とか行くんだろ?気持ち悪いんだよなー、そういうセンスで家族の幸せをアピールするノリってさ、嫌いなんだよ。そういう凡庸な均質さを普通だと思ってる街って、不健康だよな」
「もお! それは考えすぎで、あんたが僻んでるだけじゃない。イルミネーション、見てて楽しいじゃん」
いや、それはおっしゃるとおりなんですけどね。
家を電飾で飾るクリスマス。あら、ほほえましいわね、でもいいはずなのにね。なぜ嫌いなのか、自分でも変な執着だなあと思いつつ、何度か理由を考えてみた。
ひとつは、友人に毒づいたように、ある種の「幸せな家族」という類型の表現が嫌いなことで、それはまあ独身者の僻みかもしれないけど、何もどこかの雑誌やコマーシャルが宣伝するとおりの類型を演じることが、家族の望ましい「外観」なわけがないじゃないですか。
さらに、「女房主導型」が窺い知れるような家屋の装飾が好きではないという、好みの問題。かわいらしいアーリーアメリカン調の家具とか、昔だったら、黒電話にかける白レースのカバーとかでもいいんだけど。みんなが暮らす家で、母親のシュミだけが突出して内装を統一している家って、なんか嫌なんですよ。
祖父母や父母の好みや、子どもたちのとっ散らかし方が、融けあってすべて共存しているような家が、私は好き。「ほーらカワイイでしょ」って妻に好き放題やられて、それを放っておくような夫は、結局、家庭に無関心なんじゃないの? ……っていうのは昭和生まれの私の偏見で、「ファンシーなイルミネーションこそが男のホビーだぜ」ってお父さんもいるのかもしれないけどね。
あと、もうひとつ。これがいちばん、私の嫌悪の中心なのかもしれないけど。
独り暮らしを長年していると、家庭のだんらんが見えるような家々の灯りを見て、淋しくなることがある。まあ、私だって実家に帰って、お母さんのおいしいご飯を食べることはいつだってできるんですけどね。
そうじゃなくて、それがあまりに「家族のため」だけに閉じられている感じが、淋しくなってしまうの。家族以外の人にも、その幸せを分けてもらえないかなあ、とか、思ってしまうんだ。
クリスマスが好きなのは、他人に親切することに理由がいらないこと。
いや、「そんなの無理」って言われるのは承知のうえで言ってみますけど、せっかくどこかのショッピングセンターみたいに外向けに幸せを誇示するのなら、道行く人のために、「メリークリスマス、みなさん我が家の手製のお菓子をどうぞ」なんて、ジンジャークッキーの入ったバスケットでも、玄関の前に置いてみてはどうでしょうか。それだったら、きっと、イルミネーションは素敵な光になる。誰にでも気前よく親切を分かち合おうというサインになるなら。
というわけで、クリスマス電飾の家は断固として認めない、という私の主張は、具体的な闘争の手段を見つけられないまま、今年も敗北に終わりそうです。
ちなみに、全戦全敗の闘争はもうひとつあって、「夏撲滅運動」なんですが、これも毎年戦う相手と具体的な戦術を見つけられず、敗北を喫しております。
いや、うちクーラーないし、暑いのって本当つらいから、毎年地味に独りで主張しているんだが。まったく成果が上がりません。
以上、どうやら共闘者を見つけられない主張の二例です。
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