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2013年7月26日金曜日

デモクラシーだよ! 夏の“漢[オトコ]祭”

 ここんとこ、映画を何本か。「欲望のバージニア」(邦題何とかならんのか…)、「選挙2、オーディトリウム渋谷の「はじめての小川紳介」イベントから二日連続で「三里塚・第二砦の人々」(1971)、「日本解放戦線・三里塚の夏」(1968)。「選挙2」を見る前に高円寺であった想田監督を囲むイベントに行って、見た次の日に参議院選挙があったという時系列。別にシネフィルとかではないので、たまたま偶然のスケジュールって感じ。次はリンダ・ホーグランド監督の「ひろしま」もどこかで都合つけて行く予定です。

「欲望のバージニア」を見に行ったのは、もちろんニック・ケイヴが好きだからってだけで、後味悪そうな題材だし、まあマニアの因果ってことで言い訳しながら足を運んだんだけど、血腥くてストイックな御伽噺という風情がファンとしても満足で、そういう自分みたいなシガラミがなくても、意外といい按配にまとまった小品だったのではないでしょうか。時代や風土への十分な知識がないので、おそらく台詞の微妙なニュアンスは味わえなかったけど。それ以前に、英語がそこまで分からないという問題もあるしね。

時代はともかく、風土への感情移入でもって見続けてしまったのが、小川紳介の三里塚シリーズ。南部訛りの英語は全く無理でも、成田辺りの訛りなら、近隣で育った人間として大体は分かる。抽象的な歴史的事象の一項目でしかなかった「成田闘争」とやらが、自分と地続きの言葉で語られたとき初めて、切実なリアリティを以て迫る(それは自分の想像力の欠如に起因するのかもしれないが、想像しなくても感情の機微が聞こえてしまう声だったから)。そもそもは、恵比寿の写真美術館で見た「三里塚・第三次強制測量阻止闘争」でのその体験に圧倒されて、爺さん婆さんたちの言葉をもっと聴いてみたくなった。映像記録って、そういう意味で本当すごいよね。
「おめらの母ちゃんだって、こんな人殺しするよに、学校さやって、おめらを育てたんじゃなかっぺよ」という、機動隊の若者に向けた婆さんの叫び。「あれだあな、昔で言えば悪代官の仕業だっぺな。……昔と違ってよ、立派な憲法だってある時世で、こんなことが起きんだかんな……おかしいどな」という爺さんの呟き。それは、農民の語る朴訥な言葉といった外側からの意味づけを拒むように、自分にとっては、ただよく聞き慣れた響きでしかない。だからといって、自分を当事者の側に置くことも到底かなわないとしても。

連作の第一作である「日本解放戦線・三里塚の夏」は、爺さん婆さんに焦点を当てたその後の記録とは視点が若干違っていて、難しい言葉を駆使する学生さんたちの議論にも多くのシーンが割かれている。この運動で学生と地元の人たちの関係がどのように始まり、どのように変質していったかを私はまったく知らないのだけれど、「農民」という呼び名であったり、「空港粉砕」というコールであったり、「闘争」とか「解放」とか「ベトナムの人民との連帯」とか、とにかくそういう観念的な言葉と、爺さん婆さんたちの訛りまくった日常的な言葉との対比が気になった。あと、アジ演説の独特のトーンとか話法ね。そういう時代の雰囲気を生きたことのない自分から見れば、彼らの言葉もまた、本来ならば彼らが最も忌み嫌っていたはずの、軍隊の命令口調のように聞こえてしまう。デモというのが、まさに示威行為であったそのころ(ジグザグデモってこれかあ、って初めて目にして思ったけど、すごい疲れそうだね)、「闘争」の「勝利」とは、いったい何を以て計られたのか。作戦を立てる男連中の議論は、まるで戦争ごっこに興じる愉悦にも見えることがあって、なんとも言えない気分になった。

(ちなみに最近、旧某大学全共闘のおじさま方と喋っていたら、おじさまは今でも無意識に「闘争」という言葉を使ったり、デモの日付を「サンテンイチイチ行動」とか呼んだりする癖が抜けないので、面白がって茶化すと、「うるせーなあ。あー、そういうの、年寄りって言われちゃうのね」と照れ笑いしていたのでした。)

嗚呼、男の浪漫は何処を目指し、如何にして躓いたのか。

観念的な言葉を戦わせるというのは、本来、社会問題の複雑な生々しい現場で簡単にまかり通る方法ではなく、例えば純粋な論理性という土俵の上で瑕疵を攻撃し正当性を立証する「学問の流儀」において、現実の諸条件をカッコに入れた限定のもとに成り立ち得る方法であるような気がする。理屈に無理矢理現実を合わせれば窮屈な教条主義になるわけで、哲学のクソみたいに冷酷無比な厳密さに比べると、一見は論理的な体裁をつくろった教条主義は、じつはまったくの理不尽を上手に隠蔽したままで、客観的正義という権威だけを擬態する場合もあるよね。

だから、「選挙」を見たあと、「選挙2」を見る前に参加した高円寺の「ここが変だよ 日本の選挙! 自民に入れないでね 大作戦!!」で、想田和弘監督に聞いてみた。理屈と理屈の戦いで考えれば、原発を続けることも、TPPに今さら参加することも、憲法による権力の制限を手放してしまうことも、とにかく自民党がやろうとしていることは全部オカシイ。だけど選挙戦では、相も変わらず「家内でございます、何卒勝たせて下さいますよう、よろしくお願いいたします」といった話法で情緒に訴えることによって、理詰めの争点がぶっ飛んでしまうのだ。
理屈で以てすべての情緒を排除する頭でっかちなストイシズムも困ったもんだが、情緒で以てすべての理屈をぶっ飛ばすインチキも困ったもんだ。よくは知らないけど、ファシズムのアート(芸術/技法)にも、ポピュリズムの煽動にも、そういうインチキは自覚的に用いられているはずだからね。
どうしたらいいのでしょう、と、想田監督に聞いてみた。観察映画という手法によって、物語性や音楽によって情緒へ訴えかけるという映画的な欲望を意識的に禁じ手にしている(ように見える)この監督から、なんかいい知恵を拝借できたらよいなあ、と思って。
監督は答えてくれた。自民党の仕掛ける情緒への揺さぶり(農村でおばあちゃんに頭を垂れる安倍首相の写真とか)が、緻密な広告代理店的テクニックを駆使するあざとさを指摘したうえで、「情緒に訴えてなおかつ、倫理的である方法」というのはあるのではないか、と。例えば「全日本おばちゃん党」の「はっさく」が、理屈ではなくおばちゃんたちの心を打ったことを挙げ、つまりはだれでもが持っているはずの「真っ当な心」に訴えることは、けっしてインチキではないんじゃないか……といった意のコメントをされた。

論理が偏狭な教条主義もしくは科学的無謬性への過信に堕落しないために、情緒が煽動的なポピュリズムもしくはファシズムに堕落しないために、私たちはどんな言葉を紡げるのか。

そんで、「選挙2」を見たあと、自分はこんなことを書いた。



変わってしまった世界に生きていて、すべてを「考え中」に右往左往するのはしんどい。でも、参院選が終わっても、これからまた何かが起こっても、とりあえずまだその最中にいる以上、どんな方法であっても、何かしら世の中との接点になる言葉を探し続けるしかない。たとえ、ときに滑稽な身振りしかできなくても。


うーん、でも見事にどの映画も、男臭かったなー……という感想でした(表題の説明)。

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