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2012年4月10日火曜日

繭のような場所から[2]



先日行ってきた小出裕章氏の講演について、書きかけて放置しておいたメモを今更ながらでもまとめようと思っているのだけど、なんか、意外とこの寸劇で、最後ちょっとホロリとしたりして、それでかなり何かが伝わるような気がするね。
だから、以下は蛇足な感じです。

226日、小出裕章氏を迎えた「原発を考える町田市民の会」主催による「すべて知りたい原発のこと」に行ってきた。氏の講演が第一部で、井野博満氏がコーディネーターを務める、市民との対話が第二部。
学生が大して授業に出ないことで定評のある和光大学(20年前はね!)に、いつの間にか作られていた小ぎれいな大教室が会場だったが、満員のため、別の大教室で中継を見ることに。学生はあまりいない感じで、会場は中高年がほとんど。デモの参加者なんかとは大分雰囲気が違う。それでも、真剣に耳を傾ける姿からは、気圧されるような切迫感が漂ってた。ああ、こういう大人たちもたくさんいて、みんな原発をなんとかしたいと思っていたんだな、と驚く。

二時間ほどの講演で、原発の発電原理の解説と事故過程の分析、放射性物質の飛散状況とその影響予測など、技術的な話が前半。科学者である小出氏の話なのだから、そのような内容で一貫するのだろうと思っていたが、後半は「変わってしまった世界で、これからどうやって生きていくのか?」という問題提起に。

氏の主張のポイントは二つ。
●子どもを被曝から守りたい
大人が作ってしまった原発に子ども自身は責任がないのに、放射線に対する身体的な感受性は大人よりも高いという悲しい現実を、どうしたらいいのか。
●第一次産業を守りたい
過度のエネルギー浪費社会の象徴が原発である。そんな社会は持続可能ではない。
これを実現するための方法として、氏はあえて極端な方法――食品の汚染実態を明らかにしたうえで、汚染の度合いに応じて、高い値の出た食品から年齢順(感受性が低い順)に消費することにして福島の農業を守ること――を提起した。

思わず「これって、つまりレトリカル・クエスチョンだよね?」と友人に言ったら、「そうじゃないよ。小出さんは本気で言ってるんじゃないかな」というのが友人の見解。ネットでもすでに見聞していた提案だったが、あえて極論を投げることによって、彼が言うところの「騙された大人も各自が果たすべき自己責任」をそれぞれに自問してほしいと願っているように、自分には感じられた。
「騙された責任を回避してしまったら、また騙されてしまう」と、小出氏は言った。

以降、福島から避難されているお母さんが語る家族離散の悲しい話や、会場の質問などを交えて、対話は進んだ。全部を再録することはきっと誰かがやっているだろうから、主なポイントだけ。

瓦礫処理の問題について氏の意見は、現存の焼却施設で処分しろという国の方針は正しいことではないが、これ以上放射性の瓦礫を福島に放置することは、福島に暮らす子どもの健康を考えれば被曝を進めることにもつながるので、悲しいことだが福島の汚染地に専用の焼却施設を作るしかないことになるだろう、とのこと。
そのうえで、現在の政府の方針に沿うのであれば、各地の自治体の焼却施設の排気系に適切なフィルターを設置し、放射性物質の漏洩がないかきちんとテストを行って、焼却するという方法も可能だとのこと。フィルターを適切に運用管理すれば、うまくいくだろうという見解だった。ただし、焼却後の灰については、各地で保管することは不可能なので、東電に返却して福島の事故処理用のコンクリート基材にでもするしかないのではないか、と。

「なんで、原発はよくないってわかってたのに、止められなかったんですか」と、学生がストレートに尋ねる。「どうやったら、止まるんですか」。
「どうしたらいいのか、わからないのです。自分はやってきたつもりだけど、行政も国も動かなかった。敗北の歴史です。絶望することもありますが、絶望したら負けになりますから」と、あの声で答えた。

「お金持ちなら、安全な食べ物を選ぶことができるかもしれないけど、私たち学生は貧乏で、食べ物なんか選べません。安いものしか買えません。学生は大変なんです。遊ぶのにだってお金はいるし。だから、バイトとか忙しいし。困るんです」という、物怖じしない学生の無邪気なコメントに、会場の年寄りからは失笑が漏れたけど、卒業生の私は、和光大生の明るい生意気さが健在であることに、なんとなくホッとした。
小出さんも、井野さんも、そんな学生を咎めることもなく、真摯に答えてくれた。
それは、とても、うれしかった。

大人の金儲けの都合なんか、知らない。
世の中が正しいということは、どうもうさんくさい(ただしソースはない)。
自分の感性に疑いを持ったら、脆いアイデンティティなんか崩れてしまう。
だから、とにかく生きたいように生きてみるしかない。

そういう子どもを許してくれる、繭のような場所で、私は育った。
やがて、本当に自分の足で立って生きていくことが、そんなに気楽なものではないと知る日がきたとして、それでもやっぱり、生意気なまま、貧乏なまま、生きてる。

そんなの理想論にしかすぎないよ、大人の世界はいろいろあるんだよ、なんて、口が裂けても言わないよ。小出さんの言う「騙された者の責任」の果たし方を考えながら、優しい繭を失って、剥き出しの赤裸の皮膚を晒しながら、先に進んでいくしかないんだものね。

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