たまたま買ったばかりの鍋に、肉じゃがを仕込んで火にかけた。そのまま仕事をしているうちに、打ち合わせが入って、終わってみたら、半ば炭に変わった夕飯が鍋底に張り付いていた。明日の朝ごはんも兼ねていたはずなのに、すべておしゃかというわけ。ちょっとでも気にかけていればよかったはずという仮定法過去な感じの、誰のせいにもできない理由で、それでもえらく受動的に突き付けられた絶望の黒い鍋。
大人だから泣いたりしないけど、ちょっともう、今すぐに仕事も辞めて、涙さえも凍り付く白い氷原とか、ごらんあれが竜飛岬北のはずれとか、そういった方面に一人で旅立ってしまいたいような衝動に駆られましたね。
(あ、ちなみに、糖度の高い玉ねぎがいちばん焦げ付くのだなあ、という、仕方なく実証的な豆知識が得られたことを記しておきます。)
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あ、『火野鉄平のブックジャック』かなあ? だとしたら単行本は持ってないから、中学生の3年間だけ読んでた『ビックリハウス』かもしれない。火野鉄平ムカツク、って思ってた女子中学生当時の感覚は、山形浩生ムカツク、って思ってた女子大生崩れ当時の感覚と近いなあと今になってオバサンは思うけど、もうオバサンになってしまったので、今でもやっぱりムカツクわーとか言っても、おのれの教養コンプレックスが際立つだけで、ぜんぜん可愛くないよな。これも余談だけど。
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今年になって、とある成り行きから『常陸国風土記』を入手しなくちゃ、って決めた。で、誰かが、戦後ようやく岩波文庫が入手できることになって買いに行ったが、売っていたのは大して興味のない『常陸国風土記』だったけどとりあえず買った、みたいなことを書いていたよな、と思った。
ところが、さて丸善なんかに行ってみると、まず岩波文庫の目録には『常陸国風土記』はないのである。まあ品切れか、とネットで調べても、『風土記』はあっても『常陸国風土記』は見当たらない。これは思い違いか、ということになって、じゃあ誰の記述だったんだろうと調べたが、自分で思い出さない限り、いくらGoogle先生でもそこまでは上手に教えてくれない。終戦時に学生だった理系の人ではなかったかなあ、と当たりをつけて、山田風太郎の『戦中派不戦日記』じゃないかしら、と必死でページをめくってみるが、どうやらそれらしき記述はないみたい。うーん。夜中に滅茶苦茶な書棚と、書棚の膝の高さのあたりから連続して床で地層を形成している本の雪崩を漁ってみたけど、もうどうにもお手上げで諦めました。
これからもっと年を取るでしょ、持ち家も子孫もないから、本だって処分していかなきゃいけないし。
そうすると、こんなふうに朦朧とした物語の断片だけが、鍋の表面に浮いてくる灰汁のように、もろもろと漂うことになるのだろう。そのたびに、思い出せない過去との折り合い方に恐怖しながら、でも最後には全部忘れてしまうんだろう。空っぽの老婆になっても笑っていられるような、そんな未来が来ればいいんだけど。
どうなんだろう?
表参道交差点。卒業して初めて働いた街で よくお使いに行かされた山陽堂がまだある。 |
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