生意気で、女らしいオシャレもせず、孫をつくることもせず、介護の役にも立たず、終始一貫して貧乏な娘に呆れながら死ぬよりは、記憶のなかにある、楽しかった日々の可愛らしい子どもたちの姿を胸に、笑いながら旅立ってほしいと思うが、まあ、そんなにうまいことはいかないだろう。
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いろいろなこと、大人になると忘れてしまうものかと思っていたが、今ならまだ覚えていることがある。小学生のころ、子どもが大人になった自分に手紙を書くという「おはなし」を書いた。子どものころに怖かったこと、悲しかったこと、悔しかったことを、どうか忘れないでほしい、という手紙。中学生になっても、確か似たようなことを日記に記した。いつか大きくなって、幸せな大人になったとしても、いま辛かった気持ちを忘れたり軽んじたりするようなら、十代の私はけっして大人の私を許さない、と。
全くどういう執念なのか笑ってしまうが、当時の自分が言いたいことはわかる。子どもの理屈に対して、大人の理屈というのは強権的で絶対なんだけど(それにしばしば、本当に大人のほうが正しい)、子どもには子どもの理屈が存在するということを、想像できない大人にはなるな、という戒めなのだ。
幸いか不幸か、私は母という存在になることがないまま中年になった。食べかけのソフトクリームをうっかりして落としてしまって、わんわん泣いている子どもなどを見ると、「あなたがちゃんと持たないで余所見しているからいけないんだよ」と思うよりも、「ああ、なんていう、取り返しのつかない悲劇だ」と、一緒に泣きたくなってしまうようなことがある。
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庭にゴザを一枚敷くだけで、そこは特別な場所になる。神妙な顔をして、靴を揃えて脱いで上がるのだ。おかえりなさい、いらっしゃいませ。
コップに入れたただの水は、ストローで飲むと、百倍もおいしくなる。縞模様の曲がるストローなら、三百倍くらい。
鉢植えにわさわさ茂っているつるつるの万年青の葉。掻き分けると、真ん中に赤い実が房になっている。それだけでも素敵だが、赤い果肉をそぎ落とすと、真珠みたいな真っ白な玉が現れるから、いくつも作って、宝石にする。庭の日陰に生えてる龍の髭からも、もう少し小振りな真珠玉が取れる。
月の初めの日には、前の月のカレンダーをはがすから、必ずもらって、裏に絵を書く。写真が印刷されたつやつやした紙は、色鉛筆の色がうまく載らないから、文字だけのカレンダーの紙のほうがいい。隣の家にまで行って、もらったりしていた。月に一度の楽しみ。
桜の幹からにじむ脂のかたまりは、いいのを探すと、よく固まって透明なのがある。光に透かすと、飴色の空が見える。琥珀は松脂からできるんだと知って、筆箱の中に大事に取っておいた。そのうち琥珀になるに違いないと信じて。
木の根元に目を凝らすと、幹の木肌そっくりだけど、よく見ると違うぼろ布のような筋がある。それは地蜘蛛の巣で、靴下のようになっていて、先端は地面に埋まっている。注意深く、幹から巣をはがして、最後まで気を抜かずに土から引き抜く。あまり乾いていても、湿りすぎていても、力加減がうまくいかないと、途中でちぎれてしまう。うまくすっぽりと引き抜けたら、そっと破いてみると、中から茶色いビロードみたいな腹をした地蜘蛛が出てくる。さらに運がよいと、埃のような小さい子蜘蛛がわらわらと出てくる。
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などなど。
こういうことは、たぶん、母の記憶にはないだろう。
瑣末で、じつにどうでもいいような、子どもの世界にあった日常。だれにも省みられることもなさそうだから、覚えているうちに、何となく記しておきたくなった。
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