音楽とか、映像とか。
好きな曲を続けて何度も聴くことはあるけど、同じ映画を続けて何度も見るのはちょっとしんどい。
それは、「聴く」「見る」ことの総量が、受動的である度合いに比例しているような感じ。
受動的であるというのは、受け取る情報(聴覚と視覚)の時間軸を自分の恣意にできないということで、映像のほうが情報量が多い分、「ままならぬ」ことが多く感じるのか。
文字を読むことだって、同様に時間の流れから自由になれるものではなく、本来は音声情報である言葉を、視覚として順番に追うことで初めて意味が発生する。語、統語、物語は、線形の構造を持っている。書かれた物語自身の構造が非線形的であったとしても、読むという行為は現実のクロノロジカル・オーダーから自由になることはない。
それでも、書かれたものは、読む速さの緩急や、途中で前に戻って読み返すことや、一節を繰り返し読むことや、中断することが読む人の恣意になるので、映像や音楽という知覚情報を受け取ることに比べて、そのような行為によってより「能動的な鑑賞者」となることができる。
大人になって読むことに慣れてしまうと、長い時間苦労して一字一字を辿って意味を組み立てるような読み方はしなくなるから、書かれた文字による文章が時間の線形的な制約の上にあるという意識はなくなってしまい、サイン(非常口の印やトイレの男女マークとか)や絵画を「見てそれと知る」という、瞬時に何物かを認識する視覚的な情報と同様であるように感じることが多い。
いったい何の話をしているかというと……
テレビの映像やツイッターのタイムラインに目まぐるしく入ってくる「ニュース」が、そのまま流れていってしまって、きちんとどこかに書き留めて読み返せるような情報のかたちにしておかないと、忘れっぽい自分は、ふと気がついたら大変なところに流されていってしまいそうで怖いのだ。速報性を可能にするのが流れていく情報だとしても、それを何度も読み返したり、他の情報とつなぎ合わせて吟味したり、きちんと考え直したりしないと、きっと後で困るから。
この国がこれからどんな国になっていくといったような話が、流れてしまう情報のかたちで消費されてしまうと、立ち止まって考えなければならないことが、できなくなってしまう。
自分も新聞を読まなくなって久しいけど、新聞のいいところは、じつは速報性よりも、切り取ったり貼り付けたり、積み上げたりして、読み返せることにあるのかも。
少なくとも、中曽根の施政方針演説の書き起こしを、何度も読み返して怒っていた中学生の頃みたいな執念が、ネットだけではうまく持続しない。
地震の後しばらくしてから、失業していたので毎日図書館に通って、原発事故の報道がどうなっていたのか、新聞記事を読み返してノートに整理するということをやってみたけど、いま日本で起こっている諸々の政治的な動きは、おそらくそのようにして自分の頭で咀嚼し直さなければいけないような大問題がいろいろあるはずだ。
そのうえで、何をしなければいけないかということを、今度は速い流れを次々に流れてくる丸太から身をかわすようにして、瞬時の判断と運動神経を駆使して決定していかなければいけないはずなのに。
ニュースで流したんだから情報公開はしていますよとばかりに、議事録も取らないで物事が決まっていったり、だれの目にも届かないところにすぐに埋もれてしまうとしたら、どうせすぐに忘れられるからと、クリスマスや年末年始のおめでたい風景で上書きされてしまうとしたら、どうにも大変なことになりそうだ。
という自戒のためのメモなんだけど、もう正直、途方に暮れているのよ。
今日は首相が靖国神社にお参りしてアメリカ大使館に怒られたというニュースが流れた。
昨日は、一昨日は、その前は?
もう、どうしよう。
上野松坂屋の屋上遊園地、もうすぐなくなるらしい |
0 件のコメント:
コメントを投稿