先日すでに別のイベントで久々に鶴川に行っていたから、駅前や大学構内の変容は経験済みである。ただ、前回の会場は卒業後に新設された建物だったのに対して、今回は、会場そのものは新設の大教室だが、そこに出入りするために、昔からあるH棟の階段を昇り降りするアクセスになっていた。
前半が終わって、休憩時間。
考え事をしながら喫煙所に向かおうとH棟の螺旋階段を昇りながら、急に、それが学生のころに身体に刻まれた自動的な動作であることに気づく。コントラバスを抱えたり、現象学クラスの議論の続きを話し込んだりしながら、幾度も昇り降りした階段だった。階段を昇る43歳の自分と、学生だったころの自分が連続している感覚。
考え事をしながら喫煙所に向かおうとH棟の螺旋階段を昇りながら、急に、それが学生のころに身体に刻まれた自動的な動作であることに気づく。コントラバスを抱えたり、現象学クラスの議論の続きを話し込んだりしながら、幾度も昇り降りした階段だった。階段を昇る43歳の自分と、学生だったころの自分が連続している感覚。
なんだ、こんなふうに、自分のいたすべての場所と、現在の自分は、いまもつながっているのか、そんなことを思った。
通り過ぎただけの外国の街や、子どものころに遊んでいた田んぼの用水路も、いまは存在しない古い生家も。
それはおそらく、故郷とか母校だとかに、陳腐なノスタルジーを無理矢理に捏造することとも異なる、奇妙な感覚だった。
じつにどうでもよい感慨だが、とりあえず記しておく。
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