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2016年4月9日土曜日

語られないために。

たとえば、子どもの頃の他愛もないエピソードを、親が繰り返し懐かしんで語る。そうだったね、そんなことがあったね、と、お茶の間で笑う、じつに平和な風景なんだけど。

ふと、母のいないときに、弟が苦笑しつつ言った。「いや、じつはあれは思い違いなんだよね。お母さんの言ったようなことは、一切なかったんだけど。何故あんな話になっているんだろう?」

そこから私たちは、母の子どもらに対する願望とか、そういう彼女の思いなしのかたちをアレコレ酒の肴に、ああだこうだと精神分析まがいのおしゃべりをして、ひょっとして事実を都合よく歪曲しようとする年老いた親の情念の暗さへの不安を、冗談にしようと努めた。

物語は、時間軸に沿って出来事の連なりを見たままに描写するものであるかのように看取されるものの、本当は生の出来事を、一定の価値観に即して因果の連関に組み替える構造をもっている。その働き自体が虚妄であると指摘することはあんまり効力がなくて、人間はどうやら、過去の出来事が自分にとって「どういう意味をもつのか」ということを納得することで世界と自分とのかかわりを常に把握していく癖があるから、体験を物語化することなくしてアイデンティティ(体験した時間展開の中に自分の同一性を確認すること)を保持することは不可能なんだと思う。つまりそれは虚妄ではあるが、その虚妄の時間性を生きていくのが、人間が外界との関係を認識するうえで不可避であるということ。

親が思いこんだ嘘の「子のエピソード」を、子どもである弟本人は、面と向かって否定しなかった。それは本当に他愛もない物語であったから。

しかし、それでも、家族のなかで「正史」として共有される物語の語り手は、語られる者に対し、確実にある種の権力を行使している。それは、この場合、親と子という関係(しかも大して緊張もない関係)におけるささやかな権力の不均衡にすぎないけれども、「語る者」と「語られる者」の間に生じる不均衡は、必ずしもこの呑気な親子のように、権力の偏在に対する穏当な暗黙の了解によって黙認されることを原因とする場合だけではない。強い者が語り弱い者が語られるのではなく、「語る」という行為そのものが、権力の不均衡を生み出すってこともあるわけです。

つまり、「古事記」しかり、あらゆる神話で強大な王朝や宗教集団が他を制していく歴史を語るときに、その物語構造のなかに、善悪や正誤や優劣や美醜が一方の視点から固定されていくということ。

いきなり、家族のエピソードという極小単位から、神話という大きな単位に飛んでしまったけれども、その中間にはさまざまなバリエーションがあって、「プロパガンダ」「ジェンダー役割や民族のステレオタイプ化」「歴史教科書」とかも、そういう「語る」という行為そのものの権力によって構成されたフィクションなんですよ、っていう。

だから私は焦って、誰かに語られる側にならないよう、自分が語る者になることによって、「意味づけられる」側になることを回避しようともがくのだ。しかし物語の構成単位である言語そのものが既に、自分よりも大きな権力(社会的な多数派であったり、大人だったり、男だったり)の側に都合よく出来上がっていて、しばしば自分の思いなしを語るうえでどうにも居心地が悪いんだよなあ、というもどかしさも常にある。それは単に私が、言葉の洗練された使い方を知らないだけかもしれないけど。

止むに止まれずデモに出たこととか、そろそろ、自分にとっては固有の経験であったはずの出来事を、声の大きい誰かが語り始めている最近のご時勢で、あー、私はそういうんじゃなかったんだけどなあ……っていう落胆もあって、ぼそぼそむにゃむにゃ、拙い小さな声でも自分の言葉を探して、私も物語を語らなければ、またしても他人に語られて意味づけられて、そんでおしまいになってしまうから。それがちょっと怖いの。

柳の枝のヒヨドリ。御茶ノ水聖橋あたり。






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