あるべきものは、あるべき場所に?
たりないものは、たりないままに?
小学校の高学年くらいになると、ラジオの音楽番組を聴くことや、本屋でいろいろな雑誌を立ち読みするようなことが楽しくなって、何時間でもそうやって遊んでいる。買い与えられる本や、家の書棚にある本だけでは物足りなくなるのが、ちょうどそのくらいの年ごろだった。初めて自分のお小遣いで買ったLPレコードはなんとなく覚えているけれど(シーナ&ザ・ロケッツの『Channel Good』か、サザンオールスターズの『タイニイ・バブルス』のどっちかだと思う)、初めて買った本は覚えていない。昭和の子どもだから、もっと幼いころから、お年玉の使い道なんて、どうせ本を買うくらいしかなかったんだろう。
自分の世界がものすごい勢いで拡張していく特別なこの時期に、それでも中学二年生になった辺りだったろうか。あるとき、ふいに、本屋に行くことや、ラジオを聴くことが怖くなった。
読んでも読んでも、世界中にある本を読み尽くすことはできない。聴いても聴いても、世界中の音楽を聴き尽くすことはできない。喜んで遊んでいた子どもがある日、突然、そのことに思い至ったのだ。間抜けな話だが、それは眩暈がするような恐ろしい事実で、大人になるまでの時間をすべて費やしたとて、先に生まれてきた人に追いつくことは到底無理なように思えたし、いま現在大人と対等に話すことすら、子どもの自分にはハンデがありすぎる。
すべての本を読み、すべての音楽を聴かなければ、なにを言うことも許されないのではないか、という絶望に捉われて、ラジオを聴くのが怖くなり、夜中にはとくに聴いていられない。自分が宿題の英単語をおさらいしているその瞬間にも、たとえばボトムラインやピテカントロプスでは、自分の知らないバンドが演奏しているのだと思うと、恐ろしくて、どうしていいのかわからなかった。
手に負えない広すぎる世界の入り口でたじろいで、立ちすくみ途方に暮れる子ども。
そういう状態をどのように脱したのかは、よく覚えていない。
結局、本を読むことや音楽を聴くことを拒絶し続けることはできなかったし、どこかで自分の無知を鷹揚に飼い慣らしながら、いつの間にかめでたく凡庸な大人になった。
かなり後になって、学者にはなれないのだと心底から悟ったときに、先行研究を執拗にカバーしてからでないと何も言えないというお作法を改めて強烈に思い知ることになるのだが、そのときには「そりゃ、自分にはそんな堪え性はないなあ」と明るく諦めることができた。
いまでも、なんの裏付けもなくたとえば自分の感性を絶対化するような物言いには抵抗を覚えるが、かといって、すべてを知らなければ、なにも語ってはいけないということではないだろうと、ぼんやりと思っている。
それでも、時折、14歳の自分が感じた恐怖と絶望にふたたび支配されて、立ちすくむことがある。松戸駅東口の良文堂で畏怖していた子どもは、大人になってニューヨーク市図書館の前で、ネットの先にある無数の言説の前で、だらしなくぽかんと口を開けて、広すぎる世界に足を踏み入れることの無力さに躊躇する。
それでいいというわけでは、ないんだが。
0 件のコメント:
コメントを投稿