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2011年12月21日水曜日

science / fiction[2.1]

と、言い訳の伏線を敷いたところで……

自然科学は、揺らぎない客観的な無謬性を保障するための手順ではない。
もちろん、科学的な検証には正しい手続きと間違った手続きがあり、ある手続きを踏んだときに誰にでも同様の結果が再現可能であるという場合にのみ、結果の妥当性が認められるわけだが、その結果は常に試される立場にあり、より精緻な(もしくは歴史的な知見の蓄積によって進歩した)検証によって乗り越えられる「仮の」ものであることが前提となっているはずだ。
だから、日常で何かを「科学的である」というときに、ついつい陥ってしまう素朴な客観性への信頼というものは、自然科学の本来のあり方からしてみれば、単なる臆見にすぎない場合があるってこと。

原発の安全性とか、再生可能エネルギーは本当に効率的なのかとか、放射性物質による人体への影響とか、そういう議論の際に不毛なかたちで表れたのは、そういう「科学的であるとはなにか」という前提を疑うことなく、とても乱暴に「我こそが科学的に正しい」という言説が並行して氾濫したことだった気がするの。


たしかに「疑似科学」は、自然科学から批判されても仕方ない。
なぜなら、自然科学の手続きを丸ごと不完全なままに真似て、恣意的な結果を捏造するものであるから。たとえば、創造説が進化論を否定したくて、無理やり地層ごとの化石分布を、聖書の記述と「科学的に合致する」とか言い立てる場合。相手の方法論を借りたうえで、自然科学の正当な手続きを踏んだ知見と相反する結論を証明しようとしても、そりゃあ無理があるでしょう。一時期はやったニューサイエンスとか、スピリチュアルとか、ある種の陰謀論みたいな物言いが、こういう手段を採りがちなのは、ちょっと、物悲しい感じがします。

しかし、自然科学の知見が「絶対的な真実」でないことは、異なる方法論によって相対化されなければいけないわけで、たとえば、自然科学でいうところの事実が本当に政治的な指向性と無縁であるかどうかといった検証や、万人の福祉に反する自然科学の暴走を、抑止するための言説はいかにして可能かという問題とか。


デモに出るために最初に作ったプラカードに、私は「バベルの塔」の絵をあしらいました。人間が英知を集めて、「石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用い」て作った「天に届く塔」は、身勝手な神様に対抗するような、人間の科学技術の結晶であったはずです(Genesis11:1-9)。でもそこに、自らの無謬性を疑わないような過信がなかったか、どうか。神様がそれを罰したのは、本当に「妬む神(笑)」の気まぐれだけだったのか、どうか。


私の大好きな作家は、死ぬ前にこんな物語を書きました。


「さて、それでは――そのふたつの光点がいかなる天体であるにせよ、この宇宙はとんでもなく希薄になったため、光がそのひとつからもうひとつまで旅をするのには、何万年、いや、何百万年もの歳月がかかる。チリンガ・リーン? さて、そこであんたにたのみがある。そのひとつを見てから、もうひとつをよく見てほしい」
「オーケイ」とわたしはいった。「はい、すみました」
「一秒くらいはかかったかな?」とトラウトはいった。
「せいぜいね」
「たとえあんたが一時間かかったとしても、かつてあのふたつの天体のあった場所から場所へ、なにかが旅をしたわけだ。控え目に見積もっても、光の百万倍のスピードで」
「なにが旅をしたんです?」
「あんたの意識さ」それから、トラウトは聴衆に向かっていった。「それがこの宇宙に生まれた新しい性質であり、それは人間がいるからこそ存在する。これからの物理学者は、宇宙の秘密を解こうとするとき、エネルギーと物質と時間だけではなく、とても新しくて美しいなにかを計算にいれなくてはならん。それは人間の意識だ」
トラウトはそこで間をおき、左の親指の腹で上の入れ歯を押し上げ、われわれに向かって魅惑の宵の最後のひとことを述べるあいだ、それがはずれないように念をいれた。
トラウトの入れ歯は、すべてこともなかった。それが彼のフィナーレだった。「いま、意識よりももっといい言葉を思いついた。それを魂と呼ぶことにしよう」そこで彼は間をおいた。
「チリンガ・リーン?」とトラウトはいった。
カート・ヴォネガット(浅倉久志・訳)『タイムクエイク』(1998年、早川書房)


自然科学に対置すべきものを、なんと呼ぶか。
表題に戻りますよ。やはり私はちょこっと、fiction=物語についてなにか言いたいみたいよ。

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