@mikanshibano on Mastodon

Mastodon@mikanshibano on Mastodon

2016年12月9日金曜日

私は化石になりたい。

子どもだったころには思いもつかないことが、長く生きてると起きる。

電話は持ち歩くもの、武器を外国に売り捌いて兵隊さんを外国の戦場に派遣する国に生きているとか、大きな地震で壊れた原子力発電所のせいで人の住めない場所ができたこと、どうやら年を取っても安穏と暮らせそうはないとか、政府はあちこちにカジノを作りたいらしいよ、などなど。

どうも最近TVで見かけるニュースは、明るくなれるような話は少なくて、自分自身もいいかげん先行きに無条件な幸せを信じられるような希望は底をついて、ポストにため込んで見ないようにしていたクレジットカードの引き落としの通知とか、奨学金の残額通知とかの山にため息をつくような毎日。

今日、こんなニュースが聞こえてきたよ。

子どもだったころには、思いもつかなかったことでしょう。いまや、恐竜には羽毛があったことが、定説になってきたんだぜ。中国の学者さんが、ビルマの宝石店で、琥珀に閉じ込められた羽毛を見つけた。どうやらそれは、恐竜のものらしいというニュース。

National Geographic日本版「世界初、恐竜のしっぽが琥珀の中に見つかる」(2016.12.9)

◆◇◆

そうだ、可能であればなるべくかっこいいポーズを心掛けながら、とろとろの松脂に絡めとられて、でなければきめ細かい泥に埋もれて、かっこいい化石になるという未来はどうだろう。

いつか学者さんに発掘されて、不思議な生き物がいたものだ、と、首をかしげてもらえたら?

沼津深海魚水族館で冷凍シーラカンスを見た



2016年10月11日火曜日

王様と私。

頭でっかちだからか、性格が悪いからか、親が過保護な年寄りだったからか、とにかく運動ができない。逆上がりも二重跳びもできなくて、かろうじて自転車は乗れるものの、「スポーツテスト」などやらされると、毎度毎度記録のひどさに、「ふざけてるのか」と教師に怒られる。

体育教師は、たいてい私を嫌った。こまっしゃくれて生意気な子どもの弱点を見つけて、ここぞとばかりに責める嗜虐的な心象を見たような感じもしたよ。人の子だもの、そういうこともあるよね、って今なら笑えるけど、けっこう当時は本気でしょんぼりしたものです。いっぽうで、いいんだ私は体育なんてこれから無関係に生きていくんだから、って、ますます生意気に開き直ったということも。

それから長い時間が流れて、ちょうどJが始まったころに、たまたま試合を見るようになって、初めてスポーツ観戦を面白いと思った。自分の貧しい頭で考えて考えても、絶対に追いつけない事件が、一瞬一瞬に生じるから。猫と暮らすことと、サッカーを見ることは、私のガチガチに固まった思考の筋道を破壊するのに、かけがえのない事件だったわけです。逆立ちしたって思いつかないことが起きる現場で、自分が壊れていく幸せ。スタジアムに通うようになり、意表を突いたプレイに本当に大笑いしたり(賢いパサーよりも無茶で派手なドリブラーが好きです)、贔屓チームの勝敗に一喜一憂したり。

地震があってから、気落ちもしたし、デモに行くのが忙しかったりで、すっかりスタジアムから足が遠のきました。でも、また戻りたいな。今日の代表戦で、おいおいこのままじゃ…と、あちゃーと頭を抱えたりして、またスタジアムに行きたいと、そういう時間の流れ方だってあったはずなんだと、ふと思いました。

しかし20年近くサッカーを見てても、私いまだに細かいスキルや戦術が読み取れないのは、さすがに運動神経の鈍さです。やっぱり自分でプレイするしかないのかねー?

清渓川ですよ(2016.9)





2016年9月6日火曜日

百日紅

週間天気予報は外れっぱなしで、朝にニュースをつけると、連日の新しい見通しに面食らう毎日です。晴れるの? 暑いの? 豪雨なの?

台風の行方次第なのかしら、などと仕方なく納得するしかないようだから、洗濯の予定も、お昼ご飯の予定も、また、いちから組み直す。

真昼にご飯の食材を買いに自転車で出かけたら、青空の隙間に涼しい風が吹いて、台風のせいで終わったと思っていた合唱には、つくつく法師が加わっているし。

そうだこれはたぶん、夏の終わりだ。

子どものころに通う小学校のプールは、屋外にあった。くすんだ針葉樹の並木が、塀の代わりに取り囲む。だから水面には枯葉だの虫だのが落ちて、水の泡を縁取りにして、みっともなく浮かんでいた。

水中にもぐって、無理矢理に目を開けて青空を見上げると、ゆらゆら横切っていく枯葉。蝉の声はその時、止めた呼吸と一緒に息をひそめる。プールの水のレンズ越しから空の色合いの変化に気づいて、夏休みが終わる予感に驚く子ども。

泳いで濡れた重い髪の毛を持て余して、耳に残った水が音をくぐもらせる。足の指が痛いビーチサンダルに気味悪くまとわりつく校庭の土、赤いリンゴ模様の透明なバッグの中で重くなった水着とタオル。

さるすべりの紅い花、まるで永遠に咲いているかに思われたのに、はらはらと散り、乾いた地面の上で風に吹き寄せられ、歩道の縁に積もる。

同じ夏は二度となくても、歳だけを重ねて、いつかすべて忘れてしまうはずの景色だけが、目を瞑った暗がりの彼方へと。もう幾度目の9月、これから何度出会う9月か。




ぶひ。

2016年8月30日火曜日

夏休み映画まつり!

いや、たまたまなんですけどね……

「シン・ゴジラ」見に行こうなんて友だちが言うもんだから、見に行ったら。

科学技術の負の側面が化体したバケモノでしょうか、何だか面倒くさい、おっかないメタファーがトウキョウに上陸します。人間のあらゆるおセンチな情動を排除した空っぽの目で、元気よくトウキョウを破壊蹂躙する。動物の目に感情はない……という人間の「人間中心主義的な」思い込みの無意識にある嫌悪感を模倣しているのかもしれない。ぬるぬるして、きっと変なにおいもするかもしれない。異物としての、異形としての、人間ではない生物。得体の知れないおそろしいものを造形しようとして、こういう疑似生物「怪獣」の造形を、人間は丁寧に思いついたのでしょう。

そこから先は、官僚の人がいろいろなことを決めます。で、いっぱい人も死んだし、トウキョウもぶっ壊れたけど、職務に忠実な(だけど既存の官僚主義的な冗長さの非合理性を切り離そうと苦悩しつつ)、hack tips 的な知恵を絞った努力がそこそこ報われたり無力だったりして、保留付きのハッピーエンドみたいです。

よく見知った街が、震災を想起させる絵面で壊されていくのは、その怪獣の足元に暮らしている人間には恐怖でした。覚束ない報道や、ツイッターの噂だけを頼りに、一喜一憂して右往左往していた、忘れていたあの日の恐怖が思い出されます。つまり、淡々と職務をこなす公務員だけが登場人物である映画のなかで、怪獣に壊された建物の下敷きになって死ぬ無名の人間こそが自分でした。自分が死んでしまう恐怖映画は、怖いです。私の死んだ後の世界で、官僚たちは「日本を救う」のですが、その困難を克服した日本に、私はいません。とっくのとうに、怪獣につぶされて死んでいたはずだから。

官僚たちは、不眠不休で日本の非常事態に望みます。着替えのパンツを届けるお節介なお母さんはいません。「あなた、お仕事よりも、子どもを連れてトウキョウから逃げましょう。お義母さんから何度も電話で怒られてるのよ」と、災害の最前線にいる夫を嘆いて泣き叫ぶ面倒くさい女房もいません。

地震がきて週明けの月曜日、まだ電車はうまく動かなかったけど、みんな仕事に行こうとして、駅でいらいらして腹を立てていたよね。それをやるせなく、不気味に感じたことなど。思い出す。

これはプロジェクトなんとか的な、成功の物語かもしれないけど、どうせ私は死んでいるし。
人々の活躍を遥か遠くにぼんやり見る気持ちで、至極しょんぼりと映画館を出たのでした。

◆◇◆

で、次の週は「ゴーストバスターズ」を見に行った。これは、自分が見たくて。

今度はオバケです。ニューヨークのあちこちに登場する、その地にゆかりのあるオバケたち。ゴーストの実在を信じて嘲笑されていた研究者のおばちゃんは、ついにゴージャスな貴婦人のオバケを見て、「キレイ!」と息を呑みます。だけどまあオバケだから結局ぐちゃぐちゃデロデロで意地悪なんだけど。オバケだから、そもそもは恨みを持った死者だったりすることは、日本の幽霊と一緒で。アカデミズムから追い出されたおばちゃん3人の科学者は、ニューヨークという街の記憶に詳しい土地っ子のおばちゃんとチームを組んで、DIYの強力兵器で、なんとかオバケをやっつける。

だけど政府の役人には邪魔されたりして、こちらはとにかく組織ではなく個人戦。アメリカの映画って、各自が好き勝手なことやりながら、結局はそれが「チーム」として機能するっていう話が好きだよね。個人主義ってこういうことなのかなー。オバケを呼び出したのもまた、一人の孤独で不遇な鼻つまみ者の怨念。だけどゴーストバスターズたちは、彼もまた自分たちと同じ、変人のレッテルを貼られた「天才」であることを知るのね。才能があっても、あんまり意地悪されたり無理解にさらされると、自分もひねくれて意地悪になっちゃうよ、って話。

ニューヨークなんて観光でしか行ったことないけど、地下鉄ホームの本当に空気が悪い感じの埃っぽい悪臭とか、チャイナタウンの路地裏の油っぽい悪臭とか、そういうにおいを思い出すような瞬間が多々あって、あー、また遊びに行きたいなあ、と思った。愛想ないんだけどおしゃべりな大女の車掌さんとか、こういう人っているよなあ、とか。

自分もニューヨーカーだったら、巨大なオバケが闊歩するホームタウンはショックなのかな? 大笑いして見ている間、そこまで想像は至らなかった。コメディ映画の優しいオバケたちは、ごく最近にあの街で多くの人が死んだ場所の辛い記憶には触れることなく、タイムズスクウェアで楽しそうに暴れていた。ピルグリムたちが虐殺したはずの先住民たちも、西洋の神経症的なオバケになんかなることなく、安らかに「成仏」していたってことかな。触れたくない傷を描くことはないが、しかしその傷があることを、おそらく皆が共有しているから、ああいう描き方になったんじゃないかな。

彼女たちは、オバケをやっつけても、華々しくおおやけに称えられることはない。ただ、わかっているよ、ありがとう、と、街の人々がそれぞれに返信するのがラスト。単純な私は、あー面白かった、と、彼女たちの幸せを願って、胸を張って映画館を出たのでした。ちょこちょこ泣いたんだけどね。

◆◇◆

というわけで、奇しくも東西の大都市ぶっ壊し映画を、2週連続で見たことになる。政治家・官僚主導型の問題解決と、個人戦の問題解決。どっちが好みかといえば絶対に後者なんだよな。どちらもある意味で組織からの逸脱者というキャラクターなんだけど、チームワークの質が違うよね。ゴジラのチームはメンバーに死人が出てもまた律儀にスーツを着て作戦本部に集まるし、ゴーストバスターズは楽しそうに一人で武器を発明する人もいれば、オバケが出るから市民を避難させてよ、って官僚に掛け合いに行ってつまみ出される人もいる。こんなのやってられないや、って、辞めようとする人もいるし。

それってカルチャーの違いってこともあるだろうけど、ひょっとして男女の見ている世界の違いってこともあるのかな、って思った(ゴジラの脚本は男性、ゴーストバスターズの脚本は女性)。一緒に2つの映画を見た男子は、「官僚に生き死に決められたくない!」という私のゴジラへの感想に、「だって他にだれがああいう局面で決定権持つのよ?」とあっさり言って、ゴーストバスターズの後では「あの団体の存在意義って結局何だったの?」と訝しがっていた。「前作と違って今度はヒーロー扱いされなかったけど、ネズミやシロアリに困っている人を助ける業者ってことでしょ」と、何故か釈明する私。

「初めて友だちができたよ」と不器用に感極まるメンバーがいて、4人で肩を組んでイルミネーションを見下ろすんだから、それだけで十分存在意義じゃあないの、と思ってしまう私がいるわけですが。壮大なプロジェクトを遂行することのロマンって、ほら、男の人にはウケるかもしれないけど、おばさんとしては、「こんなにたくさん人が死んで、理屈捏ねてる方は必至かもしれないけど、結局このプロジェクト失敗じゃないのよ!」って興醒めだったわけだし。どうなんでしょうね。

そんなこんなで、台風の風雨が青空を吹き飛ばす東京では、夏もそろそろ終わります。


今年は朝顔を育ててみた











2016年4月21日木曜日

The land where we are living

以下、たぶん16歳の日記(5月3日)より。

「サディスティック・ミカ・バンド ファーストアルバム」

キラキラ星の彼方には……

一口食べれば
目が醒めるという
果物があるとか

なぜか神様は あらゆるものを水にして流してしまうという化け物をそこに置いて
魔法の果物を守らせているという
神様は 人間たちが長い夢から醒めるのを 嫌われているのだった

土星の輪のあたりで でっちあげられた この伝説はいつしか人々に忘れられた

魔法の果物は 毎年しずかに花を咲かせて しずかにその実を腐らせている
化け物は 今日も木の下で眠りこけては 馬鹿な人間が訪れるのを待っていた

図1ですよ
「個人的な話で恐縮ですが、わたくし、幼稚園のころ、どのように世界を認識していたかといいますと、それはパターン化によるものの区別だったのですね。つまり、おうちの絵を描きなさいというと、正方形に三角が乗っかり、右に煙突が付いていて、赤い波状の瓦を描き、十文字に桟の入った窓を描いてドアを付け、横にはギザギザのチューリップを描く、といった具合です(図1)。

このようにして、自分の分かるものは大抵パターン化して認識していたように思います。青い空、女の子→リボン、ママ→エプロン、犬は→ワンワン、マンガに出てくる子ども→いたずらっ子でよくテストで0点をとる、お皿を洗うと→1枚は割る、ピアノ→ねこふんじゃった、などと、自分の手の届かない世界までが、テレビマンガや童話、そしてそういう各種情報が飛び交う「幼稚園生の会話」によって、自分のものとなっていたわけです。ただし、それは、あくまで薄っぺらで、そのような「形式」としかなり得ない世界としての所有です。

力尽きています。
と、ここで本題に戻るわけですが、そのようなパターン化した認識による、夢から醒めた人間の描写です。前後不覚の長い夢からふいに目が醒めると、人はどーするのかなー、と、幼稚園生のわたくしが思います。すると、そこで考えられる情景は、ゆっくり目を開いて、あたりを見回し、「ここはどこだろう」とつぶやく。あたりがパターンではないでしょうか。今でもしつこくパターン化した世界の追求をしている、子ども向けマンガの世界では、実に便利な情景描写の方法だと、わたくしは思うのですが。」

「ここは、どこだ?」
ゆっくり目を開くと、彼はつぶやいた。
ぼんやりと見えてきた景色の中に、それに答えてくれるような人はいなかった。やがてもっとはっきり見えてきても、そこがどこなのか彼にはますますわからなかった。大きな、奇妙な形の木の下には、牛のようなネコのような動物が眠っていた。ささくれたむらさき色の地面と、にぶい金色の空がつづいている。

◆◇◆

疲れたけものの眠りを掻い潜って走れ
その木を見上げることなく むらさきの地面を蹴って
空にも似た壁を破りながら 誰もいない荒野の果てを笑って

キラキラ星の彼方さえ 背中の向こうに消えるころ
神様の手を借りず目覚めた世界が始まる場所で
大あくびして縄跳びでもしよう

金色の空は火星の影の中
それが夕焼けか朝焼けか分からなくても
空に開いた穴から吹いてくる風を深呼吸すればいいから

That is the land where we are livingかもしれなくて

◆◇◆

(こんな感じが、48歳の考えた結び)。









2016年4月17日日曜日

原色少年植物図鑑

幸いなことに、死なないように、飢えないように、怪我したりしないように、老人ホームは本当に至れり尽くせりだ。それでもそういう場所では、かつてひとかどの大人であったはずの個々の尊厳を含めて、衰えた老人に関心を向けて無駄な時間を割いてくれる人はいない。仕方ないことです。十分にありがたいのですから、それくらいのこと、高額なサービスには資金の足りないうちみたいな家庭(それでも恵まれていると思います)にとっては、そこまでは望めないです。 無能な娘は、色鮮やかな植物図鑑を開いて、庭にあったレンギョウの話、叔母が栽培に失敗して枯らしてしまったブドウの話、祖母が憧れていたワレモコウの話、四ツ谷駅近くの中央分離帯で捨てられた種が実っていたスイカの話、母が故郷から持って来て植えた「オンコの木」の話、おままごとに重宝したマユミの実の話、とりとめもなくページを指差して話す。父は数時間も笑いながら、自分でも懸命にページを繰ろうとして、植物図鑑に見入っていた。「これは、季節の順番になっているんだなあ」と、数十回も繰り返し驚いていた。 そうだよ、春に咲く花から掲載されているの。牧野富太郎の『原色少年植物図鑑』。おばあちゃんの牧野植物図鑑は大人用のだったけど、これは私が古本屋で買ったか、職場の資料整理で捨てられるものを貰ってきたか、そんなのだよ、確か。持って来てみたんだ。植物の名前がわからなくて困ってしまったら見ればいいかな、って。 ビワのページで、「私、近所の空家の枇杷の実をね、盗んで食べようと思ったんだけど、背が届かなくて残念なんだよね。ヒヨドリに全部食べられちゃうの悔しくってさ」と言ったら、いちばんウケた。笑いのツボがよくわからん。奥深いなー、認知症ライフ。 最後のページに父の名前を書いて、「いつでも見られるように置いておくよ」って言ったら、「いや、持っていきなさい」と勧められてしまった。そうだね、ありがとう。じゃあまた面白そうな本があったら、持ってくるからさ。


原色?

2016年4月13日水曜日

点と線と面

自動車運転免許を持っていないので、主に駅の周辺しか知らない暮らしをしている。

さすがに十年近くも同じ街に住んでいると、徒歩や自転車で生活圏を拡大することになる。高齢学生になって初めて、駅からそこそこの距離で毎日自転車通学をしたのも、そういう拡大に拍車をかけた。点でしか知らない場所が、線でつながって、頭の中で地図になっていくのは面白い。自動車に乗る人は、それが当たり前なのかな。

偶然仕事が休みになったので、小雨まじりの曇天に、自転車で遠出をした。新青梅街道って変だな。どこの駅からも遠くて、いったいどうして暮しているやら……という東京都。ドライブスルーのあるマックに、中学生が歩いてやって来る。どのコンビニも駐車場が広い。これは江戸じゃなくて武蔵の国の成れの果てなんだろうなあ、などと思案して、ママチャリで車道をぶっ飛ばす緊張感(てめえ、ちんたら車道走ってんじゃねえよという怒りに満ちた車がスレスレに追い抜いて行くことの連続)の合間に信号待ちで、ペットボトルの麦茶をごくごく。

贅沢して、街道沿いのミニストップで苺のソフトクリームを食べた。一仕事終えて帰る途中か、川崎ナンバーの大型車からオシャレな作業着で降り立ったお兄さんたち、ベビースターラーメンの大袋やメロンパンなど手に手に車に戻って、おもむろに食べ始める。食後に大量のオヤツ食べてもいいのは、あれだけ身体を動かしている人たちだけだよなあ、本当。

私の行き先は、練馬区にある巨大園芸専門ホームセンターでした。いろんな鉢花や観葉植物がキレイだけど、見るだけで今年は我慢しようっと。「5年熟成馬糞堆肥」をChromeのリュックに詰めて、黒雲からやばいくらいに雨が降り出す前に家に急いだ。


新青梅街道の闇。