「シン・ゴジラ」見に行こうなんて友だちが言うもんだから、見に行ったら。
科学技術の負の側面が化体したバケモノでしょうか、何だか面倒くさい、おっかないメタファーがトウキョウに上陸します。人間のあらゆるおセンチな情動を排除した空っぽの目で、元気よくトウキョウを破壊蹂躙する。動物の目に感情はない……という人間の「人間中心主義的な」思い込みの無意識にある嫌悪感を模倣しているのかもしれない。ぬるぬるして、きっと変なにおいもするかもしれない。異物としての、異形としての、人間ではない生物。得体の知れないおそろしいものを造形しようとして、こういう疑似生物「怪獣」の造形を、人間は丁寧に思いついたのでしょう。
そこから先は、官僚の人がいろいろなことを決めます。で、いっぱい人も死んだし、トウキョウもぶっ壊れたけど、職務に忠実な(だけど既存の官僚主義的な冗長さの非合理性を切り離そうと苦悩しつつ)、hack tips 的な知恵を絞った努力がそこそこ報われたり無力だったりして、保留付きのハッピーエンドみたいです。
よく見知った街が、震災を想起させる絵面で壊されていくのは、その怪獣の足元に暮らしている人間には恐怖でした。覚束ない報道や、ツイッターの噂だけを頼りに、一喜一憂して右往左往していた、忘れていたあの日の恐怖が思い出されます。つまり、淡々と職務をこなす公務員だけが登場人物である映画のなかで、怪獣に壊された建物の下敷きになって死ぬ無名の人間こそが自分でした。自分が死んでしまう恐怖映画は、怖いです。私の死んだ後の世界で、官僚たちは「日本を救う」のですが、その困難を克服した日本に、私はいません。とっくのとうに、怪獣につぶされて死んでいたはずだから。
官僚たちは、不眠不休で日本の非常事態に望みます。着替えのパンツを届けるお節介なお母さんはいません。「あなた、お仕事よりも、子どもを連れてトウキョウから逃げましょう。お義母さんから何度も電話で怒られてるのよ」と、災害の最前線にいる夫を嘆いて泣き叫ぶ面倒くさい女房もいません。
地震がきて週明けの月曜日、まだ電車はうまく動かなかったけど、みんな仕事に行こうとして、駅でいらいらして腹を立てていたよね。それをやるせなく、不気味に感じたことなど。思い出す。
これはプロジェクトなんとか的な、成功の物語かもしれないけど、どうせ私は死んでいるし。
人々の活躍を遥か遠くにぼんやり見る気持ちで、至極しょんぼりと映画館を出たのでした。
◆◇◆
で、次の週は「ゴーストバスターズ」を見に行った。これは、自分が見たくて。
今度はオバケです。ニューヨークのあちこちに登場する、その地にゆかりのあるオバケたち。ゴーストの実在を信じて嘲笑されていた研究者のおばちゃんは、ついにゴージャスな貴婦人のオバケを見て、「キレイ!」と息を呑みます。だけどまあオバケだから結局ぐちゃぐちゃデロデロで意地悪なんだけど。オバケだから、そもそもは恨みを持った死者だったりすることは、日本の幽霊と一緒で。アカデミズムから追い出されたおばちゃん3人の科学者は、ニューヨークという街の記憶に詳しい土地っ子のおばちゃんとチームを組んで、DIYの強力兵器で、なんとかオバケをやっつける。
だけど政府の役人には邪魔されたりして、こちらはとにかく組織ではなく個人戦。アメリカの映画って、各自が好き勝手なことやりながら、結局はそれが「チーム」として機能するっていう話が好きだよね。個人主義ってこういうことなのかなー。オバケを呼び出したのもまた、一人の孤独で不遇な鼻つまみ者の怨念。だけどゴーストバスターズたちは、彼もまた自分たちと同じ、変人のレッテルを貼られた「天才」であることを知るのね。才能があっても、あんまり意地悪されたり無理解にさらされると、自分もひねくれて意地悪になっちゃうよ、って話。
ニューヨークなんて観光でしか行ったことないけど、地下鉄ホームの本当に空気が悪い感じの埃っぽい悪臭とか、チャイナタウンの路地裏の油っぽい悪臭とか、そういうにおいを思い出すような瞬間が多々あって、あー、また遊びに行きたいなあ、と思った。愛想ないんだけどおしゃべりな大女の車掌さんとか、こういう人っているよなあ、とか。
自分もニューヨーカーだったら、巨大なオバケが闊歩するホームタウンはショックなのかな? 大笑いして見ている間、そこまで想像は至らなかった。コメディ映画の優しいオバケたちは、ごく最近にあの街で多くの人が死んだ場所の辛い記憶には触れることなく、タイムズスクウェアで楽しそうに暴れていた。ピルグリムたちが虐殺したはずの先住民たちも、西洋の神経症的なオバケになんかなることなく、安らかに「成仏」していたってことかな。触れたくない傷を描くことはないが、しかしその傷があることを、おそらく皆が共有しているから、ああいう描き方になったんじゃないかな。
彼女たちは、オバケをやっつけても、華々しくおおやけに称えられることはない。ただ、わかっているよ、ありがとう、と、街の人々がそれぞれに返信するのがラスト。単純な私は、あー面白かった、と、彼女たちの幸せを願って、胸を張って映画館を出たのでした。ちょこちょこ泣いたんだけどね。
今度はオバケです。ニューヨークのあちこちに登場する、その地にゆかりのあるオバケたち。ゴーストの実在を信じて嘲笑されていた研究者のおばちゃんは、ついにゴージャスな貴婦人のオバケを見て、「キレイ!」と息を呑みます。だけどまあオバケだから結局ぐちゃぐちゃデロデロで意地悪なんだけど。オバケだから、そもそもは恨みを持った死者だったりすることは、日本の幽霊と一緒で。アカデミズムから追い出されたおばちゃん3人の科学者は、ニューヨークという街の記憶に詳しい土地っ子のおばちゃんとチームを組んで、DIYの強力兵器で、なんとかオバケをやっつける。
だけど政府の役人には邪魔されたりして、こちらはとにかく組織ではなく個人戦。アメリカの映画って、各自が好き勝手なことやりながら、結局はそれが「チーム」として機能するっていう話が好きだよね。個人主義ってこういうことなのかなー。オバケを呼び出したのもまた、一人の孤独で不遇な鼻つまみ者の怨念。だけどゴーストバスターズたちは、彼もまた自分たちと同じ、変人のレッテルを貼られた「天才」であることを知るのね。才能があっても、あんまり意地悪されたり無理解にさらされると、自分もひねくれて意地悪になっちゃうよ、って話。
ニューヨークなんて観光でしか行ったことないけど、地下鉄ホームの本当に空気が悪い感じの埃っぽい悪臭とか、チャイナタウンの路地裏の油っぽい悪臭とか、そういうにおいを思い出すような瞬間が多々あって、あー、また遊びに行きたいなあ、と思った。愛想ないんだけどおしゃべりな大女の車掌さんとか、こういう人っているよなあ、とか。
自分もニューヨーカーだったら、巨大なオバケが闊歩するホームタウンはショックなのかな? 大笑いして見ている間、そこまで想像は至らなかった。コメディ映画の優しいオバケたちは、ごく最近にあの街で多くの人が死んだ場所の辛い記憶には触れることなく、タイムズスクウェアで楽しそうに暴れていた。ピルグリムたちが虐殺したはずの先住民たちも、西洋の神経症的なオバケになんかなることなく、安らかに「成仏」していたってことかな。触れたくない傷を描くことはないが、しかしその傷があることを、おそらく皆が共有しているから、ああいう描き方になったんじゃないかな。
彼女たちは、オバケをやっつけても、華々しくおおやけに称えられることはない。ただ、わかっているよ、ありがとう、と、街の人々がそれぞれに返信するのがラスト。単純な私は、あー面白かった、と、彼女たちの幸せを願って、胸を張って映画館を出たのでした。ちょこちょこ泣いたんだけどね。
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というわけで、奇しくも東西の大都市ぶっ壊し映画を、2週連続で見たことになる。政治家・官僚主導型の問題解決と、個人戦の問題解決。どっちが好みかといえば絶対に後者なんだよな。どちらもある意味で組織からの逸脱者というキャラクターなんだけど、チームワークの質が違うよね。ゴジラのチームはメンバーに死人が出てもまた律儀にスーツを着て作戦本部に集まるし、ゴーストバスターズは楽しそうに一人で武器を発明する人もいれば、オバケが出るから市民を避難させてよ、って官僚に掛け合いに行ってつまみ出される人もいる。こんなのやってられないや、って、辞めようとする人もいるし。
それってカルチャーの違いってこともあるだろうけど、ひょっとして男女の見ている世界の違いってこともあるのかな、って思った(ゴジラの脚本は男性、ゴーストバスターズの脚本は女性)。一緒に2つの映画を見た男子は、「官僚に生き死に決められたくない!」という私のゴジラへの感想に、「だって他にだれがああいう局面で決定権持つのよ?」とあっさり言って、ゴーストバスターズの後では「あの団体の存在意義って結局何だったの?」と訝しがっていた。「前作と違って今度はヒーロー扱いされなかったけど、ネズミやシロアリに困っている人を助ける業者ってことでしょ」と、何故か釈明する私。
「初めて友だちができたよ」と不器用に感極まるメンバーがいて、4人で肩を組んでイルミネーションを見下ろすんだから、それだけで十分存在意義じゃあないの、と思ってしまう私がいるわけですが。壮大なプロジェクトを遂行することのロマンって、ほら、男の人にはウケるかもしれないけど、おばさんとしては、「こんなにたくさん人が死んで、理屈捏ねてる方は必至かもしれないけど、結局このプロジェクト失敗じゃないのよ!」って興醒めだったわけだし。どうなんでしょうね。
そんなこんなで、台風の風雨が青空を吹き飛ばす東京では、夏もそろそろ終わります。
今年は朝顔を育ててみた |
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