@mikanshibano on Mastodon

Mastodon@mikanshibano on Mastodon

2016年3月23日水曜日

お茶の間の深遠

連休に図書館で借りた本のうち2冊、さらっと読めるものを読了したのでメモなど。2冊とも精神科の臨床医による著作だけれど、たまたまの偶然。

1冊は春日武彦『残酷な子供 グロテスクな大人』。帯を見てもどういう本かよくわからず、読了してもよくわからないが、じわじわと無意識下に沈殿して、次第に大きく裂けていくひび割れの端緒を作るような本。精神科医である著者がここで捉えている主題の縦糸は、人間の「内なる子供性」が「大人であることとの折り合いのつけ方を間違える」と生じる、ある種の「グロテスクさ」である……らしい。

しかし、その問題を叙述する方法は、症例研究でもないし、筋道立った理論でもない。著者自身の子ども時代の経験や、さまざまな文学作品に登場する人物の振る舞いが断片的に切り出されて横糸となり、いつの間にか縦糸と交差して織物となる。先に輪郭線があって、その中を整然と塗りつぶしていくような叙述ではなくて、糸が絡まっていくうちに結び目に模様があらわれるのだが、最後まで織物の輪郭はぎざぎざと不定形なままのような。

文学であれば当たり前の叙述方法であろうけれども、このようなジャンル(いちおうは精神科医の書く医学エッセイということになるのか)では不思議な印象です。しかし、著者にとってはこのような書き方でしか書き得ない主題として、その主題と自分自身との距離を誠実に計った結果なのだと思う。『病んだ家族、散乱した室内』を読んで以来、春日氏は「著書を見かければ手にとってみよう」という書き手なのだが、今のところハズレはないですね。

世界の外にいるとは、世間の文脈へ嵌め込まれる以前へと回帰することである。そしてそのような状態にあって不可解なものに遭遇したとき、我々ははじめて世界の肌触りを知ることができる。その際に生ずる感情が「驚き」なのであり、その体験をいたずらに「説明」によって鈍化させ、無難で怠惰な日常へと組み込んでしまうことはまさに退屈な大人として生きていくことに他ならないだろう。

生の一回性とでも呼べばよいのか。圧倒的な外部との出会いによって、自分が組みかえられるような瞬間を子どもが経験する。外側から意味を付与するのが難しい、そういった「驚く人」のありようを、さまざまな文学の断片によって描こうとしている。そうだ、自分にもそんな経験が必ずあるのだが、それを記す方法はないのか。おそらく詩のようなものになるのだろう。そんなことを考えたが、果たして著者の書きたかった主題と関連するのかどうか。

まあ、テクスト=織物だからよいのですよ、ということにして。社会問題を症例として類型化し、外部から分析して処方箋まで用意するような本ではない以上、その問題意識が自分の内側に向いてしまうのも、当然の読後感になるかもしれません。著者がグロテスクさを感じる「内なる子供性」とは、既存の言葉によって意味を与えられている役割に自らをなぞらえて、自家撞着してしまうような対象であるようだ。そういう幼稚なナルシシズムに無批判な聖性を見出そうとする陳腐さを拒否しなければ、「詩」を生きる瞬間は立ち現れない。おそらく詩人は、その瞬間を描き得ない詩は詩ではないことを知っているはずだ。……うまく書けるかどうかはともかくとして。

◆◇◆

すっかり変な感想文になってしまったが2冊目。上田諭『治さなくてよい認知症』。どこかで書評を読んだのかな、それで。これはねえ、認知症になってしまった父親と、それを認めたくない母親のせめぎ合いの狭間で、自分はこういう言葉を欲していたのだと思います。

周囲の家族が最初、ご本人の変化に驚き、指摘したり注意したりしてしまうことはやむを得ない当然のことです。しかし、それは認知症という病の診断を受けたいま、もうやめましょう。物忘れやできなくなったこと、失敗することを、嘆いたり治そうとしたりすることをやめてほしいのです。励まそう、できるようになってほしいと思って声をかけておられるのかもしれません。しかし、いくら指摘し、声をかけても、結局できないことがほとんどなのです。ご本人には、励ましと受け取ることができません。叱られた、恥をかかされた、と思ってしまいます。
私は父母の傍にいないから、想像でしかないんだけど、母は毎日父を叱咤していたと思うんだよね。「俺はバカだからわからないんだ!」と怒鳴ったことまであったみたい。いま、父と母は別の施設にお世話になって、母と離れた父は、ずいぶんと穏やかさを取り戻したようだ。でも、教養や知性ある頼れる存在であった夫が、何もできなくなっていくことに耐えられなかった母の気持ちもわかる。

母が父にぶつけた苛立ちを、私はきっといま母にぶつけている。母は認知症ではないが、不自由な身体で余計なことをして怪我しそうになる。私はそれを叱り飛ばしている鬼のような娘だ。

たとえば父が粗相をしても、別に醜悪さを感じることもなく、彼を恥ずかしがらせまいと努めて淡々と後始末をした自分が、何故母親にはイチイチ苛立つのか。おそらく、親の役割を期待してしまう「子どもとしての甘え」が、父よりも母に対して強かったのだろうね。「プライドばかり高くて困る(何もできないのに)」という家族の悩みに、「しかし、本人はその点だけが自分の支えなのだということをわかってあげてほしい」と説く言葉に、そうなんだよなあ、と鬼娘は反省するのだけど、老いの衰えを許せない心情の裏には、いつまでも(自分よりも)しっかりしていてほしい(しっかりしているはずだ)という依存心があるんだと思う。

そういう気持ちに折り合いをつけていかないと、鬼娘から親思いの娘への転身は図れないのだろうが、何か意外だったな、自分にそういう気持ちがあったこと。

老いは回復可能な病ではない。だからかつてあった姿を期待しても、それは相手を苦しめるだけ。そうではなく、ありのままの姿を肯定するのが愛なのよ、と言う結論に至るわけだけど、何だか老親に限らず、いろいろな人間関係への態度への応用可能性を考えてしまうわね。

◆◇◆

……というような2冊をダシに、日常と地続きにある「得体の知れないもの」とのつき合い方について、ちっとは気の利いたことを書いてみようという表題だったが、本当に単なるメモに終わってしまいました。お粗末様。

国立競技場と一緒に取り壊される団地







0 件のコメント:

コメントを投稿