情緒は、理屈に回収して一般化できない、いわば実存とでもいうべき個々の体験の一回性のありようと深くかかわるものなんだと思う。つまり、個々の悲しみの乗り越えようのない断絶に痛みを覚えることだけが、情緒に許される場所のような気がする。喜びであっても同じことで、やはりそういう感情は、ただ個にとっての他との互換性のない体験として表れうる。
事柄への向き合い方を大雑把に一般化する方向に使われると、それはとても罪深いことになる。逆方向の矢印は、情緒という強烈な溶媒によって、本来は個にとっての体験であったものを、権力(社会的な強者の意のみならず、ある論説を形作る主体であっても、本人が区分けした空間においてその権力は行使しうる)の恣意に束ねて動かしてしまえるから。たとえば、この震災みたいな心動かす体験に乗じて、その感情的な動揺を思い通りの一方向の水路に導くよう、上手に溝を掘ったとしたら?
平たく言えば、一致団結異論許さずという方向性に導くことや、責任追求や原因解明を理路整然と行なうべき主題を、個人や属性への攻撃や共感の情緒的な問題にすり替えることに、情緒というとても強い麻薬は利用されるべきでないと、私は思います。単純な倫理性の問題として。
2016年ということで、似たような体験の、二つのレポートを読み比べる。
署名が「ほぼ日の永田」さんとのことの「福島第一原子力発電所へ」。
と、みわよしこ「事故から5年、福島第一原発の「いま」を見てきた」。
私が拙い言葉で綴った「矢印」のそれぞれの傾向にぼんやりと分類されるような例示かな、と思います。
王子駅前。青空だね。 |
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