そうかあ、ある晴れた日に、いつもと変わらぬ日常のままに、きっと笑いながらコーヒー飲んでるその瞬間に、ふとしたことで世界は終わってしまうんだなあ、と、自分にとってはそういう曲だった。
てのひらを庇にしながら青空を見上げたら、真っ白に光る星のようなものが朧に見えて、それは「かくばくだん」とか? ちょうどその時分、思いつく最大限の恐怖は、とにかく子どもの手に余る得体の知れない未来だったとして、無理矢理そんな名前を当てはめてみただけかもしれないけど。
今日も明日も、地震を振り返る番組が続くでしょう。あのときに感じた恐怖は(当然のことながら)、一般化することはできない。しかし、ひとびとの記憶を共有するための「大きな物語」は、そういう個別性を地ならししようとするでしょう。個々の断絶を無理に乗り越える連帯や共感の「きずな」がはらむ独善性に無神経になるのは、怖いことです。
いっぽうで、固有の体験を絶対化することの独善性というのもあるから、なんだかしんどい。
ただふと、自分がこうして生き延びたことのありがたさを噛み締めることすら憚られていたよなあ、なんてこっそり思う。
無事でよかった、生きていてよかった、と思うことは、あまりにも多くの人が死んだときには、とても申し訳ないことのように思われたのかもしれない。あのころの生々しい感情が、やっぱりよく思い出せない。この記録を書き始めた時点でも既にそうだった。あの日が寒かったか暖かかったかさえ、何だか覚束ない。
でも、そういえば私まだ生きています。
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