@mikanshibano on Mastodon

Mastodon@mikanshibano on Mastodon

2015年4月21日火曜日

万物を引き離す線を引く

朝の時計代わりに教育TVを点けっ放しにすることが多くて、4月からプログラムが若干変わって、結局大嫌いな「にほんごであそぼ」を見てしまう羽目になる。この番組が何故嫌いかは、どうにも自分でも理由がよくわからないのだけれど、とにかく嫌いなので仕方ない。あんまり不快だから、気になってその理由を考えようとしてみたこともあるけど、まあそれが本題ではない。

かといって大した本題でもないが、最近この番組で耳にした「蜂と神さま」という詩が、またむずむずと引っかかる。ハチから始まってそれを取り巻く外界に関する境界の単位が次第に拡大していき、それが世界から神様に拡大されたあとに、再び最大の境界が最小のハチの中に収斂して終わるという詩だ。

情緒的な言葉は分節を嫌い、一のなかに多を見て、多のなかに一を見ようとする。そういうの、別に嫌いじゃない。

自分の若い頃を思い出すと、ほらいいかげん小難しいことを考え始めた思春期の時分にはまず、「世界とは何か」ということが気になって、ところが、そのココロはといえば……無力でみすぼらしい子どもの自分の日常の些事などは、悩んだりするにはあまりにも卑小な気がして、だからもっと大きな、もっと抽象的な問題を考えることが、大人になる近道のように思っていたような。

もしかしたら大志を抱く少年は、そのまま天下国家を語れるようになって、日本経済を担う立派な大人の男に育つという道筋があったのかもしれないけど、残念ながら自分は少女だったので、二十代くらいにもう一回転する。

あまりにも一般化された、世界を語る普遍の言葉の範疇に自分が含まれていないような居心地の悪さを感じて、まあこれも思春期によくある転向なんだろうけど、今度は「わたしとは何か」というのが一大事になるんだね。とにもかくにも、自分の個別性(実存とかいう怖い言葉はよく知らなかった)という地軸から、世界の説明を組み立て直すこと。そういうことに憑りつかれた。

最近、いい加減年をとって、そういう極端さのどちらにも、あんまりいい知恵は宿らないような気がしている。では結局、世界と自分は一体化して、彼我のない統一体になるのであるぞよ、なんてことは、まったくなくて。

徹底的に線を引くこと、自と他を切り分け、他と他を切り分け、微妙な差異をしっかり区別して、そしてなおかつ、他を他として、きちんと想像すること。そしてその想像には限界があることを自覚すること。

そうやってまとめてしまうと、何とも味気ないが、結局は、そういう西洋合理主義的なツマンナイ手順の良さが、意外と気に入っています、今は。

大雑把な理屈に世界を無理矢理嵌め込んで捉えようとしようとしないで、あちこちから聞こえてくる他者のいろんな声に耳を澄まして、そのたびに狼狽するという余裕が、思春期を脱した凡庸な自分にとっての、いわゆる「大人のなり方」だったのかもしれません。

だから今の私は、一匹のハチの中に世界を見る素直さも、ハチの中に世界を閉じ込める大胆さも、そういう性急で美しい感傷を、自らに許してはいけないような気がしているのかも。ハチと世界の間に線を引いて、神様と世界の間に線を引いて、そうして自分の責任ってものを直視することが、どうやら中年の課題みたい。

満開の桜ですが逆光で残念









0 件のコメント:

コメントを投稿