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2014年12月15日月曜日

朝の町を自転車で走るノンちゃん

石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』を図書館で借りて、最近初めて読んだ。実家の本棚にあったが、叔母のどちらかが子どものころの愛読書だったのではないかと思う。自分には少し難しいかなあと思っているうちに、読む機会を逸して、私も大人になってしまった。カバーのない黄ばんだ表紙の小型の本が、いまもたぶん、実家の雑多な本の山のどこかにまぎれているはずだ。

母が弟に買ってきた『君たちはどう生きるか』は、結局弟に見向きもされない間に、もう20代半ばになっていた私が夢中で読んだ。当時中学生だった弟に、この本を読ませたかった母のロマンはなんとなくわかる。『ノンちゃん…』は、祖母が「おもしろいから、読んでみるといいよ」と言っていたけど、結局は上記のような次第。そんで、40代半ばで鼻水たらして泣きながら読むという、似たような展開になりました。ばーちゃん、すまん。。

『ノンちゃん雲に乗る』は、親切な謎解きをしないまま、いくつもの疑問を残して終わる。

雲のおじいさんは、何者なのか?
なぜノンちゃんは、最後まで「ほとんど長吉さんと口をきいたことが」ないままだったのか。なぜ長吉は「兵隊に出ていったきり」帰ってこなかったのか?
おじいさんの「ある日のにいちゃん」の話を聞いて、なぜのんちゃんは泣いたのか?
「ハナ子ちゃんの冒険」の話で、おじいさんはノンちゃんに何を伝えたかったのか?

だから、この本を読む子どもは、読みながら、読み終えた後もずっと、そういうことをぼんやりと考え続けて、ノンちゃんが「ああ、雲の上の話は、とてもむずかしいのです」と思うのと同じく、生きていくうえで簡単に答えの出ない不条理を丸ごと抱えながら、ただおじいさんのくれた星を時折見上げて、大人になる困難な道のりを元気に歩いていくんだろう。
「でも……いつかきっと、と、ノンちゃんは思うのです。一生のうち、いつかきっと一度、あの雲のことを、はじめからおしまいまですっかり、だれかに話してみよう。たとえば、こんな日がこないでしょうか。」という、これはそういう物語。安易な教訓への回収を拒み、読み手の数だけ生まれるそれぞれの新しい物語への橋を架けるような、物語というかたちでしか語れない「文学」についての物語でもある。

コペル君やおじさんは、最初から最後まで難しいことを議論していたけれども、ノンちゃんは理屈をこねずに、身近にいる大好きな人たちのことを語ろうとして、どうしてもうまく語れなかったのがいいな。言い尽くすことの困難なことをたくさん抱えながら、ノンちゃんは大人になって、「ひゅう! と風をきって」、自転車で突っ走る。

「だれもいやしない! だれもいやしない。あたしがいやなんだ……。あたしが、うそきらいなんだァ……。」
と声を振り絞って大泣きした女の子が大人になって、自転車で走っていくその先には、未来がまだ丸ごと待っていて。

もはや娘をもつこともかなわない歳になった私も、小学2年のノンちゃんと一緒に泣いて、これから世の中に出て行く若者のノンちゃんと一緒に、朝の空気を吸い込みながら、颯爽と自転車で走っていく。
私にとっての「雲の上の話」を語る方法を、おそらく模索しながら……ということでしょう。

見上げるほど背が高い皇帝ダリア。



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