今日の日経ビジネスのエッセイで、小田島隆氏のこんな一文を読んだ。私は彼の書く時事雑談が割と好きで、この連載もタイミングが合えばよく読んでいる(日経ビジネスは、公開当日以降は読者登録しないと読めないんだけど、登録はしていない)。
朝のワイドショーなどでも取り上げられていた話題で、「あー、やっちまったなー」って思った。この件について海外での報道はチェックしていないけど、日本のマスコミは「皆様の大嫌いなあの憎たらしいグリーンピース」という姿勢だから、こういうときだけは大きく取り上げるのも筋書き通りという感じだけど、とにかく問題を訴求するためのアクションが人々の支持を得られないのは「失敗」だから、今回はやり方がマズかったと思う。
だからといって、「だから環境保護団体なんて独善的な人間の集まりだ」とは、私は別に思わない。それは、福島原発事故のときに散々お世話になったフットワークの軽いこの人たちを、自分が普段から信頼しているから(たとえば大抵の政治家なんかよりはずっと)。そのへんは淡々と「是々非々」なだけだが、それは既にそういったかたちで自分が彼らの訴える問題意識に共感を持っていたからで、そうでない人には、「あの悪名高いグリーンピースがまたやらかした」ってことになるよね。
しかし、小田島氏の指摘する問題は、自分が最近もやもやしている「何か」にも、すごく響く部分がある。つまり、ある問題に対して、反対の意見を持つ人間どうしの対話なき断絶みたいなもの。
いま、まもなく衆議院選挙の投票日を控えて、たとえば私のTwitterのタイムラインでは、原発問題で地道な活動をしてきた人たちが、「投票に行こう」とか「戦略的投票で自民党を落とそう」とか「共産党を応援しよう」とか訴えている。いっぽうで、そういう問題に関心のない人たちのつぶやきは、選挙なんかないかのようにスポーツや芸能人やおやつの話といった平常営業で、そこにはすごい落差がある。比較として正しいのかどうかわからないが、あの地震のときのタイムラインが地震の話で埋め尽くされたときを除いて、日常のつぶやきがある一色に染まることは、いまのところ一度もない。
小田島氏の指摘でよく言い当てているなあ、と思ったのは、たとえばこんな部分。長くなるけど、引用する。
先日、「無知の知」というドキュメンタリー映画を見に行った。専門家ではない人間が、普通に手に入る情報だけを頼りに、あの原発事故はなんだったんだ、といろんな当事者に聞きにいく映画。それはあの日以来、初めて知ったスイジョーキバクハツとかベクレルなんて単語を突然に必死で調べた無知な自分の右往左往を振り返るようでもあり、「糾弾しないで話を聞く」というスタンスの監督が避難者や専門家に怒られたりするところも、素直で面白かった(マイケル・ムーアより気が弱そうな、林家こぶ平みたいなルックスもよかったのかもしんない)。それでいて暴かれてしまうのは、非常時にうまく機能しなかった政府の杜撰さなんだけど、無力な人間が複雑なシステムを維持することの困難さという事実を描かれたとき、それをただ東電や政府が悪いというかたちで、それを外部の「敵」として切り離してしまうと、結局は自分もその無責任に加担してしまうだけのように思えてしまう。感動の涙みたいなカタルシスはないけれど、そのぶん、よくできた映画だったと思うよ。(12月20日~28日にポレポレで再上映があります)地球環境をめぐるお話は、「地球環境を保護することは是か非か」という議論にはならない。実質的には「対立する二つの陣営のうちのいずれの主張がより地球環境に優しいのか」を競う論争として、その当否を争うことになる。ところが、議論の外形は、最後まで、「われわれは地球環境を守ろうとしていて、彼らはそれを破壊しようとしている」という形式のフォームを維持していたりする。実にめんどうくさい。議論が膠着していることとは別に、私が啓蒙的な運動に対して反発を抱くのは、人々を啓蒙しようとしている人たちが、ほかならぬ自分たちの語りかけている対象をバカにしているように見えるからだ。彼らは、情報を告知することで世界を変えられると思っている。告知と広告とPRと宣伝で、人々を動かせると考えている。その前提に私はうんざりするのだ。なぜなら、彼らの前提が暗黙のうちに語っているのは、自分たち以外の人間たちが、正確な情報を知らない、自分のアタマでものを考えることのできない、権力にコントロールされている、哀れな大衆だということだからだ。彼らは、人々に福音を知らしめることが、世界の様相を改善するための第一歩だと信じている。その裏には、人々が愚かで、近視眼的で、享楽的で、付和雷同的なのは、彼らが「本当の話」を知らないからだという思い込みがある。あるタイプのカルトにハマっている人間と話をしていると、その信念の堅固さと、異教徒に対する軽蔑の深さに無力感を抱かされるものなのだが、私は、啓蒙的な運動に従事している人たちの口吻にも、似たものを感じるのだ。
で、じつは私が行った日の上映には観客は二人しかおらず、監督のトークショーはカジュアルな雑談会になった。「反対派に見てもらうだけではあまり意味がないので、むしろ原発に賛成の市民にも来てほしくてニコ動とかで宣伝したんだけど、なかなか来てくれなくて……」と監督。私は、「実は、積極的に推進したいし、その道理を説きたい個人なんて、実体としては存在しないんではないかなあ」と話した。
つまり、前々からうっすら思っているのだけど、経済的な利権が絡んでいる産業界・政界の人を除いたら、「たとえ事故による環境負荷や住民への健康被害があったとしても、原発こそが日本のエネルギーを支える基幹なのだ」なんて信念を持っている人は、そんなに多くはないのではないかな。もちろん、立地地域で現実に原発や関連産業に従事して生計を立てている人の心情はまた違って、もっと複雑だろう。しかし一般に、「原発ヤメロ」という私たちみたいな市民にもっとも反感を持っている人は、原発政策を進めたい人というよりは、「お前らにそれ言われたくない」って人のような気がする。
原発は是か非か、というような問題に直面しているのではなく、「道理としてはそうかもしれないけど、それを高飛車に正義だと言われるとムカツク」みたいな、そういう人が多いんだと思うんだよね。それは「何もしない自分」を悪だと言われることへの反発だろう。単に無関心なだけのことを、「無知蒙昧」「意識低い」「馬鹿」「悪」って言われたら(言ってるほうにその気がなくても言われたほうがそう感じれば)、それはつらい。
アベノミクスか否か、とか、原発推進か否か、という論点で普段から意見を持っているのではなく、「別に景気がいいほうがいいに決まってるし、原発だって代替案はよくわからないし、戦争なんかしないほうがいいけど、でも、コレが正しいと言われると何か、それも腹が立つし……」みたいな感情から、じゃあ選挙なんか行かなくていいや、というのが、正直なところじゃないかしら。
信念と信念が違うから対立するのではなく、信念のある人の言説を目の前にしたとき、その問題に対して確固たる信念のない人は、何だか責められているような居心地の悪さを感じて、信念を持つ人がうっとうしくなり、「その信念ごと」遠ざけてしまうようなことも、起きるだろう。
小田島氏の文章は、そこらへんの心情をうまく説明しているように思えた。
私は何で、反原発運動にちょろっと顔を出したかというと、別に誰かに説得されたからではない。
だから、きっと運動の言葉や論理で、それに無関心な人を動かすのは、あまりうまくいかないんじゃないかな、と、このごろようやく思っている。この事実(=あまり報道されない政府の無策や、制度上のまずさや、被災地の悲惨な現実)を知らないからこそ現体制を支持しているだけで、知りさえすれば原発のひどさが分かるという努力も、空振りに終わるかもしれない。知りたくないことを、人から無理矢理知らされることは苦痛だから、「無知の知」の監督が嘆くように、知りたくない人はそれを避けようとする。もしくは知ったとしても、自分に関係がないことだとして、見なかったことにすることができる。
個人的な経験の長い積み重ねで、結局ひとは何かしらの信念を持つに至るんだと思うから、効率のいいプロパガンダや折伏で、同じ信念を持つひとを増やすという方法は、何だか試験前に一夜漬けで勉強するとか、徹夜仕事の栄養ドリンクみたいに、その場しのぎの何かしか生み出せないよね。
そういえば、他人に厳しいことを求めずに、自分の至らなさを素直に認めるような信徒にこそ、敬服してしまったものです。まして教えを強制することはなかったが、ご自身の誠実な信仰を行いにしようとしているよね。信仰のない自分にも、それだけはわかった。
自分は伝道者にも、活動家にもなれないと思うが、そういう一人の生身の信徒の姿は、いつも抜けない棘みたいに、心のどこかに引っかかっているのです。同じように、反原発運動の現場でも、そういう静かな信念を持った人と多くすれ違って、そのたびにいろんなことを教えられた。
いろんなこと考えた。
だから、ついでに言うと、小田島氏の言葉で引っかかるのは、環境問題という「原罪」の前に自分自身が神になるオールマイティーのカードを切る、という部分で、原罪の前には、必ず神と自分自身とを切り離す必要があって、そのうえで、同じ被造物である自然に対する人間の責任ていう問題が生じてくるんじゃね?とか思ってしまうけど(そして西洋の無神論的な環境運動に痕跡を残すキリスト教的な癖は、日本人の持つイメージと微妙に食い違っているような)、それはクリスチャン的すぎて枝葉末節な「神学」になってしまうかもしれないんで、今日の話とは別の問題かもしれません。
というわけで、私は選挙に行きますが、たぶん、また一人でとぼとぼと肩を落として帰ってくるでしょう。
小平の公園に移築された民家 |
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