……補助線を見つけた、と前回の最後に書いたが、その前に自分の言葉でおさらい。
「物語という形式でしか言えないことがある」として、イエスの喩え話を例に挙げた。「言えないこと」は、語る側が主語になるが、受け手の側に立って言い換えれば、それは「物語という形式でしか了解できないこと」があることになる。
その対極にあるのが、論理的整合性という意味の最小単位に換言できる近代的な思考であると述べたが、それは物語が「何でないか」を説明しただけのことで、「何であるか」を指し示してはいない。
物語の定義は、諸々の学的なアプローチによって多々あると思うが、そのような「論理」と対置できるような働きを自分の言葉で整理してみたい。
1)時間的な構造を持つ
物語は時間的な遷移=chronological orderに沿って進む(eg.; 起承転結)。ある人が何かをして、次に何かが起こり、最後にある結末に至る。一連の展開は必ずしも原因と結果=cause and effectの関係にないが、現実の時間軸で起こりうる出来事の連鎖の「自然さ」を装おうため、物語上はあたかも「何かをしたからその結果こうなった」ように見える。お婆さんは川に洗濯に行って、桃を拾って帰ったら、切った桃から男の子が生まれた。個々の出来事は厳密な因果関係によってつながっているのではなく、線的な時間構造の上に連続して生じているだけだ。
2)登場人物がいる
人間でなくてもよいが、物語には出来事に関与する/翻弄される人物がいる。語りの主体となる話者である必要はなく、内的な精神の動きが露わにされる必要もないが、行動すること、つまり能動的であれ受動的であれ出来事と関わることが要求される。近代小説のように、複雑な「個」としての自我が要求されなくてもよい。むしろ、狡猾なキツネ、正直者のおじいさん、意地悪な継母、賢い末娘のように、物語が示そうとする対立的な価値のうちのひとつを単純に代表することもある。
3)具体的なイメージを喚起する
物語は抽象的な観念を扱うのではなく、出来事を描写する。視覚や聴覚に代表される五感、身体の動き、会話を交わすこと、想起するといった描写の単位の組み合わせによって読み手の経験と結び付けて、生き生きと登場人物の置かれた状況を想像させることをもくろむ。現実にはあり得ないような出来事であっても、語り手と読み手が共有する経験の日常性や常識と、逸脱や飛躍の間を、身体性に基づいたイメージの連想で媒介することによって、物語の「確からしさ」が形成される。
このような性質によって、物語は、たとえ結局は「正直者は嘘つきより尊い」「怠け者は働き者より不幸になる」といった一定の価値観を寓意として示すだけであったとしても、構造的には、そういった単純な教訓や命題に回収しきれない、「解釈の余地」という不確実性を常にはらんでいる。物語において、書き手と読み手の間で意味の共有を成立させるのは、一般化された「経験」の筋道であるが、あらゆる経験というものが究極的には個々人の個的な知覚に基づいている以上、そこには常に多様な解釈(誤解、誤読、意図的な読み替え)の可能性がありうる。
「書き手の意図することを正確に読み手に伝達する」ことの効率性において、物語は論理や数学に劣る。まして、近代小説のように、書き手にも読み手にも多様な「個」が前提となった語りに至っては、解釈の自由がそれぞれの読み手の個別性に委ねられるという、伝達の効率性とは相反するような目論見にもつながっていく。
このような(論理の側から見れば)曖昧な言語によって、「敢えて語る」ために選ばれる技法が、物語という形式なのかなあ、と思っている。
何故わざわざそんな不正確で面倒なことをするのかと、法学者や自然科学者からは怒られたとしても、きっと、そういう方法でしか共有できないことって、多分あると思うのだ。
そもそも、「今日の仕事、辛かったんだ」とか、「さっき出先で面白いことがあってさ」みたいな日常の会話って、経験が相手と共有可能であるという漠然とした憶測に寄りかかったままで、互いが拠って立つルールの差異を問い直すこともせずに、「ああ、わかるよ」って、なんとなく了解してしまうことが多かったりするものね(まだ、つづく)。
雨上がりの下高井戸。映画に行った日。 |
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