……ところで、この狂言には一つ気がかりの幕があるとかいうはなしで、その仔細と申せば、おととし五月のこと、これは芝居ではなくて実録も実録、かの野州無宿の富蔵という入墨者と上槙町の藤十郎という浪人者がふたり組んで、おそれげもなくお城にしのびこみ、御金蔵をやぶって盗みとった小判四千両、ついにお仕置になった一件は世間にたれ知らぬものはない。今度の芝居、もし上役人がわるく勘ぐって見るときには、かの四千両の一件にまぎらわしいとにらまれるような労ともいえませぬて。上役人の横車にはいつものことながら迷惑しております。泥棒がはびこるような世の中なればこそ、舞台にも白浪が出ようというもの。世のありさまには手をつけるすべもしらないのに、狂言綺語の芝居のほうをたたこうとは、その心配があるだけでも、無法の沙汰というほかない。そのひまに、ほんもののぬすっとが大手を振って大牢をやぶったとなると、上役人はどうするか。
石川 淳 『至福千年』 (岩波文庫、1983年)
最近でも、マンガの描写が、風評被害を助長するとか何とかかんとか、フィクションに目くじらを立てる役人連中などがおりました。科学的に検証可能な「事実」の正確な反映なんかを、所詮は絵空事である物語に求めるのは野暮なことで、だからたかがマンガのことと、正直この騒ぎは、私は冷ややかに横目で受け流してた。
新約聖書を読んでいると、前から不思議に思うことがあって、イエスという人は何でまあ回りくどい喩え話で諸々の教説を語ったのだろう、と。単純に善悪の教えを説くのであれば、効率のよい話し方はほかにあるような気がする。
そもそも、ものの是非だのを最小限の労力で言い表すとすれば、a+b=c という単純な構造の積み重ねでもって、つまりは、論理の言葉を用いるのが合理的なはずだ。それでもなぜか、イエスは場合によってはいかようにも誤解しうる物語でもって、人々に道理を説いた。
なぜなんだろう。
そのほうが重々しくてありがたい感じがするから……とか、聞き手の理解力に合わせて自分の身に置き換えやすい表現にしたから……とか、いろいろな説が立てられるだろうが、今のところ私は、
「そういう言い方でしか言えない種類の物事を語っているから」
というのが、いちばん腑に落ちる説明であるような気がする。
つまり法律の条文であるのならば、aはbという決め事の違反であるから、cという罰則が適用されるという理屈をストイックに規定しておかないと、解釈によってはbという決め事はaを是とすることも否とすることもできる、というのでは役に立たない。そうやって用意周到に論理構造を作りこんでおいてすら、現実に起こる出来事に対して法律を適用するのは、そんなに機械的にうまくいくものではないだろう。
それでは、自然科学の法則ならばどうか。数学や物理法則は、同じ条件下であれば常にひとつの現象が再現可能で、ゆえにそれは不動の事実ということになる。そういう性質の事象を表現するための言語が、自然科学の理論であり数式であるわけだ。
もういちど、イエスの言葉という例に戻るならば、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え。また「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」。帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そういった戒めを列挙するだけでも、ものの道理を説くことはできたのかもしれない。だけどイエスはそうはしなかった。野に咲くゆりの花の美しさや、出来栄えが気になる葡萄や麦のこと、おなかを空かせた人の気持ち、夕焼けで明日の天気を知ること、そういう回りくどい話をたくさんしてみせた。
そういった物語を通してしか言えないことが、確かにある。
人は昔から、むしろ物語によって、世界の成り立ちや自分たちの出自を了解し、部族や集団で共有することによって、善悪や真偽の枠組みにしてきた。ほら、日本という国がどうやって始まったかということだって、国生みの神話によって支えられているでしょう。
しかし、集団が大きくなって成員が流動化したり、別の物語を信じる外部の集団と付き合わなければならなくなると、じつは無自覚な信憑の「確からしさ」によってのみ支えられる物語の「真実」は、成立しなくなってしまう。
そこで、物語に代わって、善悪や真偽といった意味を組み立てて他者と共有するための最小単位として、論理や数学、法律という道具が必要になったんだろう。
しかし、それでも人間にとって、物語によって世界を了解する旧来の癖は、そうそう簡単に捨て去れるものではない。物語として了解される価値観を、自然科学において確かめられる真偽と同一視してしまうこともあれば、人間の決めた約束事である法律が規定することを、動かしがたい善悪を表す物語として感受してしまうこともある。
人間は、その本性において、物語でしか語れないことと、論理でしか語れないことを、きっちり区分することが、どうにも苦手なのだと思う。両方、自分たちでつくった約束事によって、それぞれに異なる方法で「意味」の析出をしているだけのことなんだけれども。
だから、物語が「正しく」て論理が「悪」であるとか、その逆であるとか、そういうことは言えないわけで。また、「フィクションと事実を正しく分別できない人間は阿呆である」とかも、なかなか簡単に言えないわけで。ただ、その意味生成の道筋の違いがあることぐらいは、ちょっとは意識しておきたい……という自戒ぐらいは、せめて言っておこうか。
などと、拙い頭でぐだぐだと思い悩んでいたら、意外な本から補助線を見つけた(つづく)。
新約聖書を読んでいると、前から不思議に思うことがあって、イエスという人は何でまあ回りくどい喩え話で諸々の教説を語ったのだろう、と。単純に善悪の教えを説くのであれば、効率のよい話し方はほかにあるような気がする。
そもそも、ものの是非だのを最小限の労力で言い表すとすれば、a+b=c という単純な構造の積み重ねでもって、つまりは、論理の言葉を用いるのが合理的なはずだ。それでもなぜか、イエスは場合によってはいかようにも誤解しうる物語でもって、人々に道理を説いた。
なぜなんだろう。
そのほうが重々しくてありがたい感じがするから……とか、聞き手の理解力に合わせて自分の身に置き換えやすい表現にしたから……とか、いろいろな説が立てられるだろうが、今のところ私は、
「そういう言い方でしか言えない種類の物事を語っているから」
というのが、いちばん腑に落ちる説明であるような気がする。
つまり法律の条文であるのならば、aはbという決め事の違反であるから、cという罰則が適用されるという理屈をストイックに規定しておかないと、解釈によってはbという決め事はaを是とすることも否とすることもできる、というのでは役に立たない。そうやって用意周到に論理構造を作りこんでおいてすら、現実に起こる出来事に対して法律を適用するのは、そんなに機械的にうまくいくものではないだろう。
それでは、自然科学の法則ならばどうか。数学や物理法則は、同じ条件下であれば常にひとつの現象が再現可能で、ゆえにそれは不動の事実ということになる。そういう性質の事象を表現するための言語が、自然科学の理論であり数式であるわけだ。
もういちど、イエスの言葉という例に戻るならば、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え。また「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」。帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そういった戒めを列挙するだけでも、ものの道理を説くことはできたのかもしれない。だけどイエスはそうはしなかった。野に咲くゆりの花の美しさや、出来栄えが気になる葡萄や麦のこと、おなかを空かせた人の気持ち、夕焼けで明日の天気を知ること、そういう回りくどい話をたくさんしてみせた。
そういった物語を通してしか言えないことが、確かにある。
人は昔から、むしろ物語によって、世界の成り立ちや自分たちの出自を了解し、部族や集団で共有することによって、善悪や真偽の枠組みにしてきた。ほら、日本という国がどうやって始まったかということだって、国生みの神話によって支えられているでしょう。
しかし、集団が大きくなって成員が流動化したり、別の物語を信じる外部の集団と付き合わなければならなくなると、じつは無自覚な信憑の「確からしさ」によってのみ支えられる物語の「真実」は、成立しなくなってしまう。
そこで、物語に代わって、善悪や真偽といった意味を組み立てて他者と共有するための最小単位として、論理や数学、法律という道具が必要になったんだろう。
しかし、それでも人間にとって、物語によって世界を了解する旧来の癖は、そうそう簡単に捨て去れるものではない。物語として了解される価値観を、自然科学において確かめられる真偽と同一視してしまうこともあれば、人間の決めた約束事である法律が規定することを、動かしがたい善悪を表す物語として感受してしまうこともある。
人間は、その本性において、物語でしか語れないことと、論理でしか語れないことを、きっちり区分することが、どうにも苦手なのだと思う。両方、自分たちでつくった約束事によって、それぞれに異なる方法で「意味」の析出をしているだけのことなんだけれども。
だから、物語が「正しく」て論理が「悪」であるとか、その逆であるとか、そういうことは言えないわけで。また、「フィクションと事実を正しく分別できない人間は阿呆である」とかも、なかなか簡単に言えないわけで。ただ、その意味生成の道筋の違いがあることぐらいは、ちょっとは意識しておきたい……という自戒ぐらいは、せめて言っておこうか。
などと、拙い頭でぐだぐだと思い悩んでいたら、意外な本から補助線を見つけた(つづく)。
何でも官邸団。今度は集団的自衛権 閣議決定やめてください、の巻。(6/17) |
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