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2013年11月4日月曜日

義を願う気持ちの依り代

園遊会で天皇に「直訴」した議員のことが話題になっていて、時事ネタに反応するような甲斐性はないのだが、もやもや思うことなどメモ。世間で取り沙汰されている議論とは、おそらくあまり関係がない話。

象徴天皇という「情緒的な」存在のあり方と、「この国に住む者として、この世に生まれたものとして、やはり情報をお伝えしたい気持ちがあふれ出た」という情緒的な行動の相性を見るに、国政に対して不干渉であるはずの存在を政治利用したか否か、ということに問題を絞るのは、表面的すぎるように思える。それはつまり、「靖国には公人としての参拝ですか?」みたいな問いがどこかしら白々しいのと一緒で、明文化された制度と引き比べての是非を問う以前に、そもそも明文化されない「何か」がその根っこにはあるのではないかということ。
国民主権という建前からすれば、議員は国民の声を代表する存在であって、その上に天皇という権威がシステム上存在するわけではない。では、どうして「お上に直訴」という発想が生まれたりするのか。制度上、それは全く無意味なのにもかかわらず。
多分、情緒の問題なんだよね。

存在しないはずの権威にすがる気持ち。
おそらく、天皇家が実質的な権力を失ってからも将軍とかが天皇の威光を借りたように、「天皇の政治利用」は明治以降に限定されない。日本人の情緒に長年ぐだぐだとまとわりついている。

国家権力を相対化できるような、宗教的権威の代替品に近いが、それにしちゃあ天皇は日本国家を批判する契機になり得るんだろうか。かといってローマ法王にすがるわけにもいかないしなあ。
権力がもともと宗教的な神聖性と一体化していて、それから長い時間をかけて権力の世俗化という歴史を経た果てに、ようやく民主主義とか法治国家とかいう概念が出てきた…という、いわゆる「近代化の歴史」は、実はヨーロッパの話だから、どうも日本の「近代」の場合はうまく当てはまらない。木に竹を接いだように、近代に成立した概念を移入してしまったことだから、どこかもやもやしてしまうのだ。

情緒というものを託せる「依り代」(あまりよい比喩ではないか……)のようなものが、うまく機能していて、法治国家の合理的なルールとは完全に独立して存在しつつ、国家そのものを批判できる力の源泉となるような状態を考えるのは、この国では難しい。でも、宗教学をかじった自分としては、そういう世の中のあり方を夢想しないわけにはいかない。
国家とは明文化されたルールに則って機能するべき、という法治国家のあり方には何の不服もない。立法も、行政も、司法も、裏のないフェアプレイでやってもらわないと困る。
だとすれば、余計、そういうシステムがうまく汲み上げきることのできない「情緒の問題」を、どこかで、国家とは違う位相にある共同体……国家の支配構造の下部組織ではなく、自律した論理によって構成される関係のあり方……によって、忖度する必要があるのではないか。

そういうことを言うと、カルトみたいな集団しか想像できない? では、例えば「会社」はどうだろう。実際に営利を追求するのが目的である会社組織において、それが是とするものが国家の是とする方針と対立することだってあるだろう。だからこそ業界団体によるロビー活動なんかもあるわけで、少なくともそれが営利追求という目的にある限りは、日本人の誰もそれをカルトなんて呼ばないだろうね。
でも、まあこれは最悪の例です。最悪の例なんだけど、「がんばっていた日本=三丁目の夕日的な風景」には、オジサンたち平然と自らの情緒(ノスタルジー)を託してしまうでしょう? 貧しくても、その貧しさから抜け出そうと、誰もが必死に輝いていました……みたいな物語で。

困ったことに、最悪の例はいくらでもあるんですよ。銃を持って市民が自衛することは国家が侵すべきでない権利である、とか。宗教的な信条のもとに、進化論を学校で教えるべきではない、とか。
あ、これは日本の例ではなかったですね。

それでもやっぱり、多数決で決まった以上はその合意事項をきちんと通すことを徹底したいからこそ、その一方で、国家対個人というきわめて粗い網の目から零れ落ちるものも考えなければならないはずだ。国家の利益と個人の利益をいきなり直結することにしか「帰属」の関係がなかったら、面倒なことだと思うの。だからこそ結社の自由があり、信教の自由があり、コミュニティ単位の利益を考えるべき地方自治が必要とされるわけで。
本来は情緒の問題であるようなことを、いきなり大きな権力構造に握られてしまうと、それはすごく大雑把になってしまって、一人ひとりにとってそれぞれ異なる切実なことが、単純に数の論理に負けてしまって、ざっくりとうやむやにされてしまったりするから。

そういう網の目を補完する「中間団体」という概念を教わったのは、旧約聖書学の授業でした。
「横浜フリューゲルスの存続運動のほかに、いい例が思いつきません」と尋ねた学生(私ではありませんでした)に、「そうそう、あれはよい例ですね」と、先生が微笑んだ。そこで私たちも目を輝かせて、あれやこれや、議論をしたのだ、その頃。

が、中途半端に均質化された世の中で、個人と国家の距離感は妙なレンズで歪められて久しく、世間なり学校なり会社なりという、直接に「帰属」する組織は、国家の理屈と同質の同調圧力を個々人に加えてくるだけ。自治などという御伽噺は小学生にも笑われる始末で、私という個人の情緒を託すコミュニティなどは、いったいどこに存立しようがあるのか。

原発反対派、その情緒の部分だけで、連帯ができるというのも結局は難しいのは思い知ったとおり。あとは既存の法的手続きのフェアプレイのなかで、どれだけの手が打てるかということに尽きるのだろうが、正直しんどい。絶望的にしんどいのだ。

だから、かの議員はその切羽詰った情緒の持って行き場を、「直訴」という方法に訴えたのだと思う。いろいろな人の悲鳴に耳を傾け、真面目に、真面目に考えて、切羽詰って、思い余ったのだろう。すると、「情熱」が現実を変えるための道筋を我が身でかなえるためには、国会議員という即物的でつまらない職業は、どうにも向いてなかったのかもしれないね。

じゃあ、自分ならばどうするの、と、困ってしまう。
地域コミュニティに参加しようと決意しても、子なし独身者勤め人の居場所のなさに気持ちが萎えつつある今日この頃。
スーツで盛り場を歩けば、「あなたと私は同じ人間」として痛みを分け合えるかと思っても、やはり断絶しか感じなかった最近のこと。

私には答がまだない。
連帯の夢なんて、そうそう安易ではない。
それでも、絶望をしてはいけないし、そして直訴するべき権威もない。
人間が始めたことだもの。同じく人間が終わらせるべきことなんだ。
そして神はきっと、このご時勢、簡単に火だの硫黄だのを降らせるほど暇でもないだろう。
やるべきことをやれ、それは何か、おのれの頭で考えなさい、と笑うでしょう。

希望とは、そういうことかもしれない、と、私はこっそり思う。
所詮……なんて言わない。意気地のない自分に悲しくなるから。

泣きそうになったり、関係のない歌を歌って笑ったり、伸びすぎた鼻毛を抜いたりしながら。

11/30 新橋「スーツデモ」

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