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2013年9月10日火曜日

虫眼鏡と望遠鏡

いろいろもやもやしながら、まだ暑かった休みの日に、午前中映画を見て午後は写真展に行った。

映画は『標的の村』、写真展は『アンドレアス・グルスキー展』。一度涼しくなったのに、また気温が上がった辛い8月の週末。

映画については、知らない話を聞かされて、もう馬鹿みたいにぼろぼろ泣くしかなくて、泣いてるだけではあまりに不甲斐なくて、それでも責める相手は自分の他に見つからないような出来事。広大な米軍基地を封鎖する、じいさんやばあさんたち。座り込みは、今までも繰り返し仕方なく追い詰められて使ってきた戦い方だという。
ならばそのぎりぎりの方法を、真似てみるのだ追い詰められたときに。あの日国会前で、ただ手持ち無沙汰に「定刻」で帰路に着いたことを、今更悔いている自分だから。服従しえない不条理な決まり事に出会うこれからのため、私は情けなく泣きながら、おっさんたちの切実さと、自分の切実さと、その距離を測らなければいけないような気がしている。

早起きしてポレポレに行ったから、昼を過ぎてあまりの暑さ(信号待ちすらしんどい)にどこかへ行こうということにして、乃木坂に行った。群集の個々の顔さえ見えそうな写真、触れそうな肌理のリアルさは、あまりにも具体的な生の事象に焦点を当てたクローズアップは、いっそ抽象的になってしまうという矛盾を曝け出す。くらくらする。くらくらする。


中野車庫の近く

中途半端な説明を拒否するのが、極限の抽象化と、極限の具体化だ。そしてそれは、意外と、個々人の生きている現実において、それほど距離の隔たったものではない。
だって、身も蓋もない毎日を我々は生きていて、そこには往々にして合理性もなく、その現実を記述する方法に嘘がなければ、それは脈絡もないリアルであり、そのことにおいてあらゆる意味は漂白されるから、切り取りようによっては、ストイックな抽象性に到達しえるのだ。
そういう映画だったし、そういう写真だったんじゃないかな、と。

このへん、うまくまとまらない。
ただ、つかこうへいの芝居を見たときのザワザワした感じと、だれとも会わずに毎日ファミコンでテトリスだけをして目玉の血管切れてたころの感じと、どこかでそれは繋がっているということ、かつて友だちと思いつきで喋っていたときには、うまく合意できた気がするが。

テクノと民謡は好きだけど、感情を再構成して、その理屈に同意を求めるJ-Popはよう好かん、みたいな。

だからまだ、これも考え中な感じです。


高円寺




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