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2013年6月15日土曜日

景色と現在の境界

官邸前抗議に多くの人が集まり始めたのは、ちょうど去年の今ごろだった。
今夜も金曜の抗議は続くが、自分は行かなかった。最近はちょっと足が遠のいている。

6/2の国会包囲。白い鳩の風船。
民主主義の世の中の全うなあり方として、言いたいことを言う正当な権利を行使するんだ……という気概で、デモなんかに足を突っ込んだわけだけど、それは権力の側にもそういった声に耳を傾けるという双方向性があってこそ、初めて全うな仕組みになるはずだ。
官邸はいつもまるで空っぽのようで、霞ヶ関には盛り場もなく、顔を伏せて足早に駅に向かう役人たちと、交通整理の警官たち以外には通り過ぎる人も少ない。上げた声はどこに届くのか、いつも心許ない気持ちになる。
それでいいのだ、と。毎週末にこの場所に集まることに意味があるのだと、それは理屈としては納得できるけれど、どこかしら虚しい気持ちを持て余してしまうのも確かだ。参加する互いが唯一のオーディエンスのような気がして。

極端な過激派などではない「普通の人たち」の正当な異議申し立てであることが、官邸前の美点であると自負している人は多いだろうし、この運動が評価されるのもその部分なんだと思う。しかし、その異議がただの一方通行の言葉で、なんの返答も得られない日々がこれからも果てしなく続くのだとしたら、それでもあの場所に集まり続ける意味はあるんだろうか。
「そういうものだ」と言われてしまえば、あ、そうですか、と返すしかないけれど。
少なくとも自分の気持ちは、何かにがっかりしている。

2年前のタハリール広場からの映像がそうであったように、ウォールストリートからの映像がそうであったように、昨年のバーレーンからの映像がそうであったように、今はイスタンブールのゲジ公園から美しく悲しい映像が届いて、人々がともに声を上げてつながることの夢や挫折を、極東の島国にいる私にも束の間見せてくれる。
官邸前の大群衆に、催涙ガスの噴射や放水が行われることはなかった。デモの行方に気を配る人たちのぎりぎりの頑張りで維持した秩序が、私たちを暴徒に変えることを阻止したから。
一方でニュースでは、「イスタンブールの反政府デモが……」と報じている。「反政府勢力」は、世界のあちこちで悶着を起こしているが、あの日国会前の道路を埋めた大群衆は、民主主義的に正当な意思表明をする市民であって、暴徒と化した反政府勢力なんかではなかったわけで。

このごろ思う。その違いって、何なのだろう。
原発の維持に反対する私は、反政府勢力(まあ力なんてないけど)ではないのか。
この政府を温存したまま、ただ民主的な手続きで穏便に民意の反映を望むことしか、自分にはできないのか。
革命も、政権交代も、維新も、revoltも、結局は全部手垢のついた嫌な言葉で、そんなお題目に無邪気な夢を見ることはできない。しかし何かが変わることを望んだからこそ、去年あの場所に自分はいて、そして何も変わらない現状に、今は苛立っている。

もういっそ「反政府」でいいよ、と、自棄気味に思うことがある。
あのまま暴徒になって何かが変わったとしたら、少なくともそのチャンスはもう逸してしまったんだなあ、と思うことがある。

意志を表明するだけの権利は、真剣にそれを聞く人がいないのなら淋しい。

Anarchist MemesのFBより



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