言い出したらきりがないことは、わかっているんだよね。
感情移入できるものと、できないものがある。
「何を許せないか」は、ひとによって違う。
汚染食品による子どもの被曝を気にする人、立ち入り禁止区域に残された家畜やペットの処遇に義憤を感じる人、不条理な被曝労働に心を痛める人。
ただ、時折、感情移入しやすいものへの仕打ちだけに注視するあまり、結局は何かを切り捨てているのではないかと、不安になるんだ。
人が他の命の犠牲のうえに生きている事実を教えようと、みんなでヒヨコを育てて最後には「絞めて食べる」授業をやった幼稚園に通っていた友人は、当時、そのトラウマで鶏肉が食べられなくなってしまった。そんな彼女に、彼女の父親は、自分の足でどんな小さな虫も踏み殺したくないと、輿を担がせて地面を移動した篤信の人の話をしたそうだ。結局、輿を担ぐたくさんの人の足によって、より多くの虫が死んだであろうという、そういう訓話。
幼いなりに、その話の機微をしんみりと、かみしめたという。思い出として笑って語りながら、やっぱり彼女は今でも、鶏肉は苦手だそうだ。人参が嫌いな私を叱るついでに、ふと思い出して、そんな話をしてくれた。
私は時々、蚯蚓やゴキブリのことを思う。ムカデやカイガラムシのことを思う。命なんて大袈裟なことを抽象的に語りそうになる自分もいるが、そんなときにも、かつて自分が誓ったこと――イモムシを見てキャーとかいう大人になんかならないぞ――を盾にとって、田舎街で蚯蚓やカマドウマと親しく遊んでいた幼い自分が、必死の形相で睨んでいるんだ、いまの自分を。
肉も食うし、革靴も履く。どうせなら、ハダニよりもネコのほうが可愛い。それでも、あの子どもはいまも、私を睨んでいる。
だから先日、船橋デモで「三番瀬の生き物」の展示を手伝えたことは、うれしかった。
あんまり反響なさそうだったけどね。シングル・イシューの埒外だしね。船橋のおいしい海苔(本当においしかった!)も、ベクレルフリーの立場から見たら、微妙だったのかもしれないけど。
あまりにも人間の都合と違いすぎて、一切の感情移入を拒否するような生き物の立場があるからこそ、私は自分の理性や想像力の限界を、情けなく実感することができる。蜘蛛が銀色の巣を律儀に張るのや、鴫が干潟の泥をつついているのを、潮溜まりでイソギンチャクが触手を動かしているのを、ザトウムシが葉っぱの上にわらわらといるのを、見ているのが好きだ。
そういう場所が多く残ってくれるといいなあ、と「虫のいい」ことを思ってる。
少なくとも、原発なんてゴメンだぜ、と思う私の中には、蚯蚓と遊んでた幼い自分がいるってことが、なんとなくわかった。
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