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2012年8月20日月曜日

部活と恋愛の両立とか、「仕事と私とどっちが大事?」とか


なんて、まあどうでもいい。
そんなのもともと、相対するものでもないし、両立に悩むようなものでもないでしょ。だいいち、「両立」ってなんだ? そんなことに悩んでいた時期があった人でも、大人になってみれば、融通の利かない真面目な子どもならではの葛藤を、微笑ましく思うものだよ。
子どものころ大好きだったアメリカの児童文学で、出来のいいお姉ちゃんと比べて冴えない自分が蔑ろにされているんじゃないかと嘆く妹に対して、お母さんが諫める場面があった。正確な表現は忘れたが、たしかこんな言葉。「愛情というのは、砂糖つぼのお砂糖とは違うのよ。だれかにあげたからって、そのぶん、他の人に与える分量が減るものではないのよ」って。
何事かに注ぐ情熱だって、たぶんそんなものでしょう。レンアイにかまけてブカツが疎かになるかっていうと、べつにそんなわけない。そんなことを言い出す大人は、大抵そのどちらか(多分ブカツかな?)が、より注力すべき重要事項だなんて嘘を押し付けようとしているのだ。レンアイよりブカツのほうが大事だなんてことはないし、ブカツよりベンキョウのほうが大事だなんてことはない。生きていて、選び取るさまざまな「やるべきこと」「やりたいこと」において、そりゃあ比重はいろいろだとしても、それらのどれかが価値において「より勝っている」なんてことはないはず。

ブカツとレンアイの両立というのは、すごい間抜けな例です。
でも、似たような主題が「仕事と家庭の両立」とか、「政治運動と生活の両立」とかになると、いい年をした大人だって、眉間にしわを寄せる難問みたいになることがあるから、困る。

当たり前のことだけど、生きていくのって、ちっともシングル・イシューじゃないや。
官邸前で金曜に太鼓を叩いていた私が、土曜には親の耄碌のこととか、おいしい地酒がスーパーに出回らないこととか、夏バテ回復の秘訣なんかを、気にしている。
それはだれしも、いろいろな現実があって、そのすべての切り口においてだれかと連帯できることなんてもちろんありはしないし、活動家を職業としない「普通の人」には、そんな日常が、人の数だけ違うかたちで、いろいろに存在する。

ひとつの問題を、自分の人生全体で引き受けるという生き方があるいっぽうで、生活の中に政治的な活動が混ざってるような生き方もある。とにかく原発が爆発して初めて、それが自分の日常と直結する面倒な課題になってしまった軽薄な自分は、とりあえず、そういうふうに思うようになった。
それは、すべてを「活動」に捧げる生き方と比して、あたかも不謹慎なように見えるかもしれない。ちょっとでもデモなんかに行く自分を見て、そういう行動に二の足を踏む友だちが、「なんだか大変そう」って敬遠するのと、たぶん同じ感覚かも。きちんと全身全霊を傾けない行為ならば嘘じゃないか、と思う気持ちとも、根っこは同じ。
自分だってちっとも釈然としてなんかいない。なんだかもやもやした感じ。

私は旧約聖書学などという、現代の諸問題とは全く接点のないようなフィールドで遊んでいたことがある。そこで聞いた話では、旧約世界の社会構造では、政治的な仕事は無給で、糊口をしのぐ「仕事」とは別の役割として、自治体の成員が担っていたとか。
「あ、それはいいかも!」って思った。お父さんであること、会社員であること、それがアイデンティティの全てになる必要はない。家族やコミュニティ、賃金を得るための帰属、さまざまな側面があって、その全部が、その人の暮らしであればいいはずだから。
まあ、いまふうな言い方では、単に「ワークライフバランス」とかいう括りで、知恵を絞るような話なのかもしれないけど。

また話が逸れるが、聖書学を本気でやろうとしたら、ひとつの単語の意味を一生かけて過去の膨大な文献と突き合わせて検証するような仕事がたくさんあって、30過ぎて初めてラテン語やヘブライ語の読み書きを習うような非クリスチャンが、今さら入れる世界じゃなかった。そういう仕事を誠実にしている研究者を恩師に得て、「あ、自分は学者になんかなれないや」と、清清しく自分の軽薄さを自覚し直す羽目になった。
完成できないパズルをさっさと諦めて、別のオモチャに目移りするような子どもだった、私は。

とにかく、その恩師が教えてくれたのは、こんなことだった。
「公」と「私」という対比は、「滅私奉公」という物言いに表れるような、「公儀」と「私欲」といった対立する概念ではない。つまり、個の外部にあって何らかの強制力として働く価値体系(社会に参与する領域)が「公」であり、その残余(社会と関係ない領域)が「私」であるというものではないのだ。どちらもが、他者との関わり方のさまざまな局面において、ひとりの人間の生き方のなかに同じ重みをもって共存するはずなのだ。

もっと理路整然と、いまの自分を正当化できるように思って書き始めたが、結局うまくまとまらない。
いつまでも「考え中」なのはつらい。自分の正しさを明るく信じられるようになりたいけど、そんな都合のいい理屈を捏造する元気がない。アイスクリームなんか食べながら、ぼんやりと途方に暮れている。いちご味のアイス、ミント味のアイス、夏みかん味のアイス。。。

まだ夏は続きます。

「私とシベリアン・ハスキー、どっちが大事なの!」
と彼女から責められた男の子を知っています。

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