And the word became
flesh / And the flesh became word
incarnation /
verbalization
ナウなヤングの頃に夢みたことがある。
自分固有の声や肉体なんていう無価値なものを離れて、ただ言葉になってしまいたい、と。
歴史であれ、政治であれ、社会であれ、心理であれ、一回的なもの、具体的なもの、固有の体験に還元されるものはすべて、不純物のようでイヤだった。せめて人間の作るものでは、和音や幾何学や物理の法則など、抽象的な構成物のなかにしか、大事なものはないように感じていた。ザーウミやシュプレマティズムの発想に憧れた。テクノが好きだった。
ナウなヤングだったからだね。それに勉強も遊びもあんまり得意じゃない。
ただ言葉だけになってしまって、肉体など失くしてしまったら、どんなにか素敵でしょう。一度発した言葉は自分のものじゃないし、だれのものでもない。声もなく文字に記した言葉には、私の体臭は残らない。かたちもなく、思いもなく、何も伝えず、無色なもの。
それに痛みがあることはわかっていても、その痛みを喜んで背負う覚悟をするのが、ナウなヤングのナルシシズムってもんだ。
本当は今でも、ちょっぴりそんな夢をみる。
どこかから聞こえてくる、だれかの声に耳をふさげば、純粋な理屈をこしらえて、正解を出すこともできる。「なお、摩擦や空気抵抗は、ないものとする」という逃げ方だ。しかし、だんだん年をとってくると、どうもそういうわけにはいかない。どうしたって、逃げようとしたって、聞こえてくるんだ、いろんな声が。
日曜は福井市の県庁の周りを、再稼動撤回を叫びながら歩いた。
生まれて初めて行った福井市は、なんだか人影もまばらで、商店街も寂れているように見えた。若者の働き口を探すのにも、大変なのかもしれない。東京や大阪の大企業にぶらさがらないと、いろいろむずかしいこともあるのか。
県庁の建物は、立派な城址の石垣の上に建っていた。お堀が巡らされて、でっかい鯉が泳いでいた。お堀に近づくと、みんなから大事にされているのか、「ごはんちょうだい」って感じにぷかぷかと近寄ってくる。
立派なお寺も、少し歩くだけでたくさん見かけた。なんだか寂れて見えるこの街にも、きっと豊かで自信に満ちた時代があったんだろうな、と、歴史も知らずに勝手な想像をしてみる。どこで、暮らしが変わったのか。どこの地方都市でもそうだろうけど、公務員になるのが安泰な仕事で、あとは企業の工場にでも勤めるのが、地元で働くことだ……みたいな図式しか、選べないんだろうか、いまや。
大通りに面した新聞社の壁面には、号外が張ってあった。大飯のこと、地元の紙面では、ずいぶん紙幅を割いて伝えているらしい。どんなことを論じているんだろう。きちんと立ち止まって、ガラスケースの中に貼られた本紙を読むことはしなかった。
言葉になりたいと夢みた私は、相変わらずダサい肉体をもてあましたまま、名物のおろしそばを大盛りでおいしく食べた。県庁を見上げて叫んだときに、ちょっと泣いた。パーキングエリアに停車するたびに、トイレに行って煙草を吸って、夜中には新宿へ帰った。
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