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2012年6月16日土曜日

うなぎの寝床を広場に変える


「さあ、これからたてふだを、ぜんぶひきぬいてやろう。もう、草もすきなだけのびるがいいんだ!」
スナフキンは、じぶんのしたいことを、ぜんぶ禁止しているたてふだを、のこらずひきぬいてしまいたいと、これまでずっと思いつづけてきました。ですから、(さあ、いまこそ!)と思うと、考えただけでも身ぶるいがするのでした。
まず、
「たばこをすうべからず」
のふだからはじめました。つぎには、
「草の上へすわるべからず」
を、やっつけました。それから、
「わらったり、口ぶえをふいてはいけない」
にとびかかり、つづいて、
「とびはねるべからず」
を、ふみつけました。
小さい森の子どもたちは、ただただあきれてしまって、スナフキンを見つめていました。
それでも、子どもたちは、
(このおじさんは、じぶんたちをたすけにきてくれたんだ。)
と、だんだんわかってきました。すると、みんな、すな場からでて、スナフキンをとりまきました。
「さあ、みんな。きらくにおやり! すきな場所へいっていいんだよ!」
トーベ・ヤンソン作(下村隆一・訳)『ムーミン谷の夏まつり』(講談社青い鳥文庫、1981年)

ときどき、公共の場所を管理する人たちは、「公共の場所」を恐れているのかなあ、なんて思うことがある。小屋を建てて野宿されたりしないように公園をフェンスで囲んで鍵をかけたり、やたらと遊具を設置して遊び方を限定したり、立ち入り禁止の芝生や花壇を作ってみたり。
広場というのは、誰のものでもなく、誰でもが居られる場所のはずだ。所属する会社や教会、所有している屋敷を離れて、どんな肩書きも出自も、平等になってしまうような出会いの場所。たぶん、それが「公共の場所」ってことなんじゃないかな。
そういう場所に、人びとが集まって交流することへの恐れが、管理という仕事にはつきまとっているんじゃなかろうか。下衆の勘繰りかもしれないけど。

だから、なかなか、いい広場が見つからない。
たとえば、アシバ祭やチャランケ祭のたびに、昼からお酒を飲んでおばあちゃんたちと若者が一緒に踊る長閑な集まりの場所だった小さな公園は、駐輪場建設の建前で、駅前から消えてしまったし。
経産省前の小さな片隅を守ってくれているおじさんたちが、あそこを「広場」と名づけたのにも、きっと、そんな思いが込められているのかもしれない。

とうとうさっき、大飯原発の再稼動が、国民の安全のために、国民が選んだ国民の代表によってアナウンスされた。
ずっと反対の声を上げている「国民の一部」が毎週、官邸前の歩道に集まっている。昨夜はとうとう、1万人を超えたという。会社帰りのサラリーマン、子連れのお母さん、立っているのも大変そうなおばあさん、スケートボードを抱えて粋がった青年、おとなしそうなお姉さん、血気盛んなおじいさん、あちこちのデモで見かけるミュージシャン、官邸なんて正直どこにあるやら見えないようなうなぎの寝床の歩道だったけど、そこはたしかに広場になりつつあるのかもしれない。あまりにも人が多いから、お巡りさんは車道をほんの少し、私たちに分けてくれた。



官邸の目と鼻の先にいても、届かない声だっていうんなら、それでも広場に集まることをやめない限り、どこかに広場を作り続ける限り、まあ民主主義をゴミ箱に捨てるのはもったいないような気がしている。

もぞもぞと、自分の声を確かめるために。誰かの声を聞くために。その同じところと違いを、考えてみるために。

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