きのこが大好きなので、さっきもマッシュルームを食べた。原発に目くじらを立てている私が平気できのこを食べること(原木栽培のしいたけから変なものが出ちゃったにも関わらず)を、不思議がる人もいる。
食品安全委員会の議論を公聴しに行っても、気になるのは、妥当な規制値の設定がどれだけ有効なリスク管理として可能なのかという点だった。そのいっぽうで、自分が食べるものの汚染とかは、あまり気にしていない。マスクもしてないし、セシウム汚染疑惑が浮上したって、もとより危険なタバコを止める気なんてないし。
私には子どももいないし、生殖の見込みもない。原発を放置してきたことに責任のない子どもや若者が、健康に影響を受けるリスクを背負う不条理は阻止したいけど、大人である自分にはその負い目もある。こないだの小出さんの話じゃないけど、自分だけ健康でいたいなんて、言えるはずもないんだ。
放射能に限らず、「食品の安全性」という観点と、「環境負荷の最小化」という観点からあるリスクを問うことは、一見同じことを問題にしているようで、じつはずいぶん違う気がする。
ものすごく乱暴に言ってしまえば、前者は最終的には人間もしくは自分自身に降り掛かるリスクを問題にしているのに対し、後者の最終的な被害単位は生態系全体という規模になる。だからといって、前者は「私利私欲」だからダメだとか、そういう話ではない。環境とか生態系といった抽象的な単位は、生活実感に裏付けられない観念的な分節にすぎないのかもしれない。
ものすごく乱暴に言ってしまえば、前者は最終的には人間もしくは自分自身に降り掛かるリスクを問題にしているのに対し、後者の最終的な被害単位は生態系全体という規模になる。だからといって、前者は「私利私欲」だからダメだとか、そういう話ではない。環境とか生態系といった抽象的な単位は、生活実感に裏付けられない観念的な分節にすぎないのかもしれない。
なにが「私」という単位になるのか、その違い。
しかし、その違いは、なにを意味するんだろう。
どうせ毎回わりとそうなんだけど、きちんとした文献を押さえずに、今日もフリーハンドで書いている。近代では自明とされている「個」なんて、もともとあった単位ではないと、宗教学の授業で教わったような気がする。
ほら、そんな理屈を引き合いに出さなくたって、日本語で言う「公と私」は、共同体に滅私奉公する「公」的な振る舞いだけが社会への参与のあり方で、それ以外の残余である「私」とは、公的な振る舞いと相反する利己的な欲望であるかのように、思わされてしまうことが多いじゃないですか。でもそれって、「自律的な個」なんかじゃないよね。西欧で言うところのpublicとprivateの訳語でもないよね。
だから、なにが言いたいかっていうと、「私の食べるものが安全であってほしい」という願いと、「あらゆる人や生き物の暮らす環境が安全であってほしい」という感情が、本来ならば乖離してしまってはいけないわけで。
……とか書いていたら、「STSに関する基礎文献をちゃんと読め!」と、友人から突っ込みが入りました。フリーハンドで勝手なことを書くのも、非効率なようですね。
とりあえず、今日の「随想」はこんなところで、またちゃんと考えます。
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