@mikanshibano on Mastodon

Mastodon@mikanshibano on Mastodon

2012年2月23日木曜日

Here, there, and everywhere


子どものころの話なんだけど、「生まれ変わったら何になりたい?」とか、よく言うじゃないですか。うーん、と考えているうちに、奇妙な想念に取り付かれた。

例えば、私が他の誰かに生まれ変わったとする。しかし、その誰かには、私であったころの記憶はないとする。そうであれば、自分の死後において、他人である人びとが自分の「生まれ変わり」であるという仮定は、誰に対しても一様に成立しうるし、その人が自分の「生まれ変わり」でないとする論拠は発見しえない。
だとすれば、ですよ。
あらゆる他者は私の「生まれ変わり」でありえるのだから、いま現在、「自分以外の人間」として遍在するあらゆる他者というものが、「自分ではない」と殊更区別することに、どれだけの意味があるんだろうか……と思ったわけです。

何だか真面目に理屈を詰めていけば、論理的な破綻が簡単に見つかりそうな話ですが、それでもこの想念は、何らか自分のなかで一定の位置を占めるに至った。
「自分」と「他者」を区別することが無意味でかつ、「自分」と「他者」は同一であることが絶対的に不可能(生まれ変わる前の記憶を一切持たないのだから)、ということ。
すべてが代替可能であり、同一化不可能。

そんなふうに思いながら世の中を見てみると、なんだか不思議な感じがしたんだ。
私ではない私が無数に、それぞれの都合でくっついたり離れたり、いがみ合ったりして。
いまでも、実存なんて言葉の意味はよくわからないので、自分が固執する自分の固有性というものを相対化しなければ……と思ったり、「自分が自分である」と言える要件を数えてみないと不安になったり、私は他者というかたちで遍在するのだ、と開き直ったり。

私はあなたではない、あなたは私ではない。
そんなことは、十分すぎるくらい、わかってはいるけどね。

何で突然、こんなことを思い出したりしたんでしょう。
自分でも、よくわからない覚書です。

0 件のコメント:

コメントを投稿