「君たちは啓蒙主義を軽視して勉強してないから……ちゃんとやったほうがいいですよ」と、なぜか現代神学の授業で牧師兼業の教授に言われたことがあって、その真意はわからずとも、なんだか印象に残っている。現役の大学生のころは全部すっとばしてポストモダンだけやってればいいと思ってたんだけど、大人になるにつれ、近代どころか確かに、近代に至るまでの歴史すらまるっきり無知であることが露呈していくことになります。
年が明けても依然として気が滅入る毎日から逃避したくなって、連休に阿佐ヶ谷の書源に行った。贅沢のできない失業中の貧乏人にとって、新刊書店に行くのは久しぶりかも。ランダムに並ぶ書棚の間をぼーっとさまよい、思いつきでなにか仕入れようという娯楽です。
手に取った順で、A.J. ジェイコブズ(阪田由美子訳)『聖書男』(阪急コミュニケーションズ、2011年)、ドナルド・ホール編(東雄一郎ほか訳)『オックスフォード版
アメリカ子供詩集』(国文社、2008年)、松田権六『うるしの話』(岩波文庫、2001年)を、本当に来月払うアテはあるのか? のクレジットカードで購入。逃げたい心が透けるようにわかる脈絡のなさ、だな。
やらなきゃいけないことを全部サボってする読書は楽しい。さっき、『聖書男』を読了した。ブリタニカ百科事典の全項目を読破する……というアメリカ的な馬鹿系チャレンジで名を上げたライターによる、似たような趣旨の次作です。信仰に熱心ではないジューイッシュの家系に育った不可知論者でエスクァイア編集者のニューヨーカーが、新旧訳聖書に書かれた祭儀規定を字義通りに守ろうとするとどうなるか、という一年間の実験を綴った面白おかしいエッセイ。日本語タイトルはどうかと思うけど、原題は『The Year of Living Biblically: One man’s Humble Quest to follow the
Bible as Literally as Possible』とのこと。
リベラルな東部人が、政治的な頑なさをもつファンダメンタリストにとってのアメリカという異文化と対峙する違和感の記録でもあって、ジェイコブズたる著者が、祭儀規定に厳密な「別の人格」のヤコブとして生きてみることの苦行が描かれる。懐疑的な不可知論者といいつつも、なんだかんだでジューイッシュの伝統は体感している人だから、後半の新約部分になると、正統派を自認する宗派に対する葛藤のリアリティが希薄になってしまったのは残念な感じだけど、私も新約の知識があまりないし、放っておくとどうしてもユニテリアン的な気持ち(イエスが人間に見えちゃう……)に傾きがちだから、それなりの距離で最後まで着いていけた。
で、またしても、かなりラフな感想になる。
サイエンスとフィクションの関係をぐるぐる考えているけれども、自然科学の対極に置かれるのはおそらく、宗教なんだろうね。20世紀の日本におぎゃあと生まれて、宗教というのは無知蒙昧の極限であって、科学的な合理性の対極にある気味の悪い思い込みであるかのように、たぶんだれかに教えられて育った。しかし、「自立した個人」が世の中の自明の前提であるとか、そしてその集合体が「社会」であるかのように歴史を見るのが間違いであるとかは、小説の代わりに民話とかおとぎ話を読んでみるだけでも、なんとなく気がつく。
私たちが明治以降に輸入した「近代」とか「社会」というモノの言い方には、西欧がそういう概念を形成するまでにたどったドロドロの道筋がすっぽり抜け落ちていて、たぶんそのドロドロは、森羅万象を説明する唯一の原理であったキリスト教の世界像/権力/共同体規制からの「世俗化」という戦いの歴史であったことを、なぜか日本の「近代」や、さらに戦後の「民主主義」ですら、都合よく無視しちゃってるわけだよね。
それはきわめて意図的な無視であり、戦後ですら上手に守られた(隠された?)作戦だ。きっと、もともとは西欧文化と接した日本の知識人の変な焦りと自負心から生まれたもので(新井の哲学堂とかに行くと、井上園了の作りたかったテーマパークには、そんな不思議な必死さがあって驚く)、だからこそ国家神道みたいなものが形成されたことにもつながるんだろうけど。
それで、たまたまクリスチャン山盛りの大学に行ってから聖書学とか神学をかじってみたら、そのへんのミッシングピースが腑に落ちたことがひとつと、どんな宗教を基盤にするものであれ(特定の既成宗教である必要すらないのだが)、個人という単位が確立される以前の世界の物語がないと、やっぱり文学なんて痩せ細ってしまうのではないかなあ、という感触を手に入れた。
系統立てて学問をしている人には、こんなムニャムニャはもっとすっきり解決されているんだろうけどね、不条理な祭儀規定にのっとってヒゲを伸ばしてみたよ、と記念写真を撮るジェイコブズ/ヤコブみたいに、余計な回り道をすることが、たぶん私にも必要なんだ。ジェイコブズがヤコブに感じた違和感を確かめるような行為が、西欧の学問の上っ面をチョロっと撫でただけの自分にも、体感される必要があるんじゃないか。
頭でっかちで、知識もなく世の中にも疎く、運動不足で、直感的な想像力にも欠ける私が、あの日から街に出て歩く。言葉の生まれる場所を確かめたいと願った以上、こりゃあ回り道の苦行であると自分のなかで分裂しながらも。
もう、このへんの話は当分ぐだぐだになりそうだから、連続themeのはずが、乱暴にタグにしちゃいましたよ、というわけで、この項まだまだ続く。。
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