あれ以来、サイエンス(狭義の自然科学)ってなんだろう? と考えることが多い。
そういえば、日本語では「科学技術」ってひとつの単語のように扱うけど、英語だとサイエンス&テクノロジーだね。私のように九九(とくに七の段)も危ないような文系の人間からしてみれば、自然現象の物理的・化学的な振舞いを解明するサイエンスと、そういった科学的な知見を用いて人為的な構造物を設計したり、その振舞いを予測して管理するテクノロジーは、一続きの「理系のお仕事」のように日常感じているけれども、本来はちょっと性質の違う事柄なのかもしれない。そういったことも含め、まだ未整理なメモを記す。
11月28日に聴講した第二東京弁護士会主催の憲法シンポジウム「原発と憲法:ドイツの脱原発から学ぶ」では、個々の発表時間は短かったんだけど、かなりの分量の資料をおみやげにもらってきた。登壇者の一人である日本学術会議前会長の広渡清吾氏は、ドイツと日本の比較をしつつ、資料として日本学術会議による「エネルギー政策の選択肢に係る調査報告書」(2011年9月22日)を配布してくれた。とっくに出ていたこの報告書の存在をちっとも知らなかったので、私にとってはこの機会がようやく初見になる。
その「報告書」の添付資料には、ドイツの「より安全なエネルギー供給のための倫理委員会(Ethik-Kommisssion Sichere Energiebersorgung)」のメルケル首相あて提言(2011年5月30日)の要約や、その提言に先立ってドイツ自然科学アカデミーLeopoldinaがまとめた提言(2011年6月8日)の要約も掲載されている。このドイツの二つの有識者提言の構造はおそらく、自然科学者によって構成されたLeopldinaの科学的な評価に基づく見解が別途あって、それを踏まえながら、エネルギー政策の「倫理性」にまで踏み込んだものが、聖職者や財界人も交えた倫理委員会の提言であったようだ(公開の日付では前者の提言が先になっているが、倫理委員会の最終報告書にLeopoldinaの提言が取り込まれている旨が注記されていた)。いずれにしても、この二つの「提言」は客観的なデータの提示にとどまって、その最終的な評価を為政者の側に委ねる性質のものではない。脱原発のために国が政策として進めるべき未来像や、そのためのロードマップが具体的に示されているものである。
いっぽうで、日本学術会議の「報告書」は、速やかな原子力発電の停止(A案)から、異なるタイムスパンに基づく原子力から他のエネルギーへの転換(B~D案)、原子力発電の維持または発展(E~F案)という「6つのシナリオ」を提示するもので、「これらのうちどのシナリオを選択するかは国民の意思に基づく政策の判断であり、日本の学術を代表する公的機関である日本学術会議としては、現時点でその選択の方向を示そうとするものではない」と明言している。つまり、議論の前提となる「客観的な事実およびその予測」を複数の選択肢についてまとめることが、この報告書の役割であるとされている。電気代の試算がついつい目立つけど、別にそれだけの話ではないわけね。
注意しておきたいのは、ドイツの二つの提言はメルケルが脱原発の姿勢を表明した後に政府から要請されたものであったのに対して、日本の場合は(おそらく国から政策の参考意見として要請されたのではなく)学術会議が自主的に検討したものだということ。だから、政策決定に専門家が及ぼしうる影響力の違いというコンテクストで、日独の科学者提言を比較することはできない。
それでも、「倫理」を冠した委員会による提言(ドイツ)のあり方と、「安定供給性、環境適合性、経済効率性」を基本的論点とした「問題や課題の共有」(日本)というスタンスの違いは、うーん、どういう差異なんだろうな、とか思ってしまう。
リスク評価が科学者の役割で、リスク管理は為政者の役割だ……なんて話は、9月18日に聴講した日本学術会議哲学委員会主催の公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任」でも散々聞いた。食品安全委員会の報告書の件では、当然そういう役割分担が前提になっていたし。しかし、そのような区分って、本当に正当なものなのだろうか(もちろん、その9月のシンポジウムでもそのへんは議論の的になっていたわけですが)。
それ以前に、「誰が専門家であるのか」「客観的な科学は可能なのか」「科学そのものは倫理から完全に自由であるべきなのか」といった問題が、どうしても気になってしまう。
マクラばかり長くて、なかなか本題に入れないが、とりあえずこの項、寄り道しながら続きます。
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