十年ほど昔、ある日の午前中、下りの中央線に乗って大学に向かっていたときのこと。
さほど混んでいない車内で、北側に背を向けた席に座っていた私は、何気なく向かいの席に座っていたおじいさんに目を留めて、ふと、「ああ、歳をとったら、こんなおじいさんになりたいなあ」と思った。とくに変わった特徴があるわけでなく、どこにでもいるような穏やかで地味なおじいさんだったが、自分がこの人のように歳をとることができたら、なんだかそれは、とても幸せな未来であるような気がした。どうにもおかしな考えだと気づいて苦笑したものの、そのまま車中でぼんやりと、おじいさんを眺めていた。
どこかの駅が近づいたとき、突然、そのおじいさんが私に笑いかけて、「ほれ!」と言った。急なことに面食らっている私に、おじいさんは通路越しに何かを投げて寄こした。慌ててキャッチした手を開いてみると、森永ミルクキャラメルが一箱。かろうじて小声で発した「あ、ありがとうございます」が耳に届いたかどうか、おじいさんはにこにこしながら、開いたドアから下車していった。
両のてのひらで戴いた黄色いキャラメルの箱を、呆然としばし見つめる。
封を切って一粒食べたら甘くて、そういえば朝ごはんを食べてなかったことを思い出した。うれしくなって、残りはポケットにしまった。
大学に着いて、喫煙所で友だちにおすそ分けしながら、不思議なキャラメルの来歴を話す。
「それはきっと、神様だったんだよ。おじいさんの姿で現れたんだわ……」と、宗教学のクラスメイトが笑う。
「うん。たぶんそうだね」と私も笑って、みんなで甘いキャラメルを食べた。
『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
この喩え話で、この話を語った人は、何が言いたかったんだろう。
ヒューマニスト=無神論者を誇らしく自称したカート・ヴォネガットは、「死後の恩寵や懲罰をなんら期することなく、立派に振舞う」人間であろうとした。
どうしようもなく分断された世界で、その境界線を乗り越えることは、現実にはとても難しいことだけれども、何も神様に仕分けされるぞと脅されなくたって、そんな理想なしに未来を思い描くことは、きっと誰にだって辛いことだ。
なんてったって『Smoke』が好きで、オーギー・レンのクリスマス・ストーリーのわかりやすい浪花節にボロボロ泣いてしまう私は、ハリウッド製の実写版『スーパーマリオブラザーズ』で、NYUの考古学専攻の女子大生と配管工のおじさんとの恋物語にすら泣いてしまったお目出度い人間だ。
キャラメルもらったりしたら、もっと泣くぞ。鼻水たらすぞ。
でも、じゃあ、何ができるか。
そのへんは、じつに、心もとないけど。
この前、よく知ってる街を歩いてみたくて、三鷹に行った。小さな子どもや、お父さんお母さん、お年寄りが多くて、静かに心配している人たちの穏やかな怒りに、あらためて触れた気がした。頼もしいような、切ないような……。でも、一緒に歩けて、よかった。
勇んでスネアを持ち込んで参加した友だちは、いつも先導してくれるドラム隊のいない状況に焦っていたけど、「やるしかねーだろ」って思い切ってヘタクソなビートを刻み始めたら、おばあちゃんたちが可愛いマラカスや鈴で合わせてくれた。
「おにいちゃん、そんな重い太鼓を叩いてたら、疲れちゃうよねえ」と、不随意運動みたいなダサいリズムを気遣ってくれるおばあちゃんたち。そのそばで爆笑する私に、「そんならお前が叩け!」と拗ねる友人。
商店街の顔見知りにあいさつしたりしながら、ゆっくりとした歩調で進む隊列。
解散地の小さな公園に着いたら、子どもたちがいっせいにブランコに走り寄って、遊び始めたよ。
かつて見知った街の景色の意味が変わってしまったとしても、それならばまだ、せめて、きっと未来は変えられるはずだから。
土曜は寒いらしいけど、懲りずに渋谷に行ってみますね。
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