最近、友だちの彼氏から「まあ、いいんじゃないの、あの人、あんまり電気を使わなそうだから」と、最近の私の慌てぶりへの感想をいただいたという笑い話。
たしかに私の家には、あまり電化製品がない。電子レンジも空調もないし、オーディオセットも洗濯機もない。でも、旧式のTVセットはあるし、一畳分のホットカーペットもあるよ。
「原発が嫌なら、電気を使わずに暮らすしかない」っていう感想はしごく真っ当だし、冷蔵庫すら持たずに暮らしている友だちもいる(野菜を長持ちさせる秘訣は、なるべく生えている状態に等しくして保存することだ、と彼女は笑ってた)。
それでも、全ての電化製品を諦めた者だけが原発を批判する資格があると考えてしまうのも、一方では窮屈な発想であるように思う。
たとえば、こたつ。
ぬくぬくと膝を暖めて、ねこが住み着いて長々と寝そべっていたりする、畳の上のささやかなパラダイス。怠惰な学生時分には、私のアパートでは6月になってもこたつが部屋の中央に鎮座していた。ぬくぬくと、何も考えず、時には肩までも潜り込んで、ひたすらに幸せを享受していたものです。
こんな平和な機器の動力が、誰かの命や暮らしを踏みにじって生成される剣呑なものであったなんて、あんまりじゃないですか。
なんて残酷な話だろう。
ぼんやりと、ヨブの嘆きのことを考えてた。
何度読んでも難しい話だから、何らか考えが意味を成したわけでもないけど。
たしかにそうだ、私は過失を犯したでもあろう、しかし、私の過ちは私に仮寓する事柄である。たしかにそうだ、もしあなたがたが私に尊大に振舞い、私にわが恥を教示するのであれば、今、しかと知るべきだ、神が私を不当に扱っており、彼の捕獲網が私を取り囲んでいるということを。私が「暴虐だ」と叫んでも、私には応答がない、助けを求めても、公儀が存在していない。
並木浩一訳『ヨブ記』19:4~19:7(岩波書店、2004年)
私は別にヨブのような義人ではないから、自らの高潔さへの確信と無自覚な罪の違いなんかについて、本気で悩んだり、堂々と抗弁することもできない。
それでも不条理な暴虐に敢然と立ち向かったヨブは、別にべらぼうなことは言っていないような気がするよ。少なくとも、相手が神様じゃなく、人間の過失なんだったら、話は全然別だしね。
それが同じく人間である自分自身の過失であることも、苦々しく抱きしめている今日このごろだけど。
私は、立派な人間ではなかったし、今も平然と、まるで頼りない人間だ。
これから夜が明けたら、小さな太鼓を持って、「怒りのドラムデモ」にでも行ってきましょう。
何に対して怒っているのか、とにかくそれは、自分自身かもしれないとしても。
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