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2011年10月31日月曜日

桜の頃に

4月14日の日記より抜粋。
拙い字で書かれたメモ。

平静を保つ人、秩序を回復しようと努力する人、それが正しい姿なのは分かるけど、どうしたらいいのか、単に今までの平静な暮らしで楽しいと思っていたことが、楽しくなくなってしまったというか。
大きな虚無感から、なかなか立ち上がれなくて。

災害時のストレスへの向き合い方は、年齢や性別でいろいろあると思うけど、平気で「今こそ消費を増やして経済活性化を」なんて言えない。

石原の天罰発言はサイテーだけど、実は私は、自分にとっての天罰だったみたいに思っているのかも。
浮かれた資本主義、誰かの犠牲の上に成り立つ繁栄なんて、いかに脆いものだったか、福島の憂鬱を前に思うんだ。同じ繁栄を取り戻すことに、何の意味があるんだ?
土地を、生活を、企業のために奪われた多くの人々を生み出してしまった歴史を、繰り返したとて。

でも、そのための方策を懸命に考えなければいけないときに、私はただ無力感に苛まれて、手も足も出せずにいる。
ただ昨日と同じ仕事を続けることの意味が分からなくて、途方に暮れてる。
これは、いったい、どういう天罰だったのか。

私にとっていまのところ、信仰とは、主知主義の限界を認識することかもしれない。
変な全能感を抱いて、おのれの力を無限に拡大していけるという幻想を捨てることだ。
「自分は間違っているのではないか」と、仮定的な全能者の前で、問うてみることだ。

復興でよいのか。
同じ日本を作り直すことで、よいのか。
私はどうもそんなふうに思えない。
膨れ上がった贅沢な国をもう一度取り戻すことが、正解とは思えない。

たぶん私はいま、焼け野原の東京にいて、「ほら、大東亜共栄圏なんてやめとこうぜ」って思ってる。
少なくとも、原発の話はそうだ。
私たちの大義が間違っていたことが、こんなにも明らかに示されたのだ。

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