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2016年4月4日月曜日

郵便ポストが赤いのも……

読み進めていた牧野智和『日常に侵入する自己啓発:生き方・手帳片づけ』を、本日床屋さんの髪染め時間(白髪多すぎて、なのに半年近く放っておいて大変でした……)で読了。

いわゆる自己啓発本はお好きですか? 私は残念ながら読みません。ぼんやりと、自分は何で読まないのかな……と考えるに、うーん。ビジネス的な成功に描かれるような人物像に近づきたいという向上心がないからかな、とか。

そこに提示される成功者の定義に、まったく関心がないとかね。

と、実も蓋もない大雑把な感想ですが、著者は、そういう私の怠惰な直感に対して、きちんと精緻な分析をしています(例えば以下のp.282)。
つまり、かなり多くの啓発書においては、仕事における習熟・卓越を目指す男性(性)、自分らしさを志向する女性(性)という前提が、驚くほど何も顧みられることなく自明のものとされている。自己啓発書を通して確認され、また啓発される「今ここ」とは、概してそのような前提に枠づけられた「今ここ」なのである。やはり前著でも述べたことだが、私たちが数多流通する啓発書を手にとり、「自分自身の問題の解決につながると思い自己適用するまさにその瞬間に、さまざまな社会的変数(少なくともこの場合はジェンダー:筆者注)の分散をさらに再生産することに貢献してしまうのではないか」(牧野自著「自己啓発の時代」引用p.245)と考えられるのである。
 そうなんですよ。自己啓発書の説く「あなた自身が変わらなきゃ」は、もっと歴史的な(あるいは単に権力の)恣意で構成されたはずの社会的な拘束を不問にしたままで、むしろ「あなたが変わることで世界は変わる」と強要する欺瞞があるわけです。男女それぞれの通俗的価値観に追従する改善策、手帳術による時間のマネジメント、片付け術による空間のマネジメント、と、わかりやすく例を挙げて解説している本書は、ベストセラーにランクインしたそういうそれなりに人々から望まれる需要を、(私みたいに)安易に唾棄することを誠実に回避しながら、丁寧に分析することで却ってそのイージーな本質を曝露しているのね。

著者の指摘する「アイデンティティ・ゲーム」の行き着く先の不毛さったら、それを著者は「コントロール可能性への専心」と定義するが、どうなんでしょ(p.288-289)。
私的空間からノイズを除去し、「好き」等の一元的な意味によって再編成と安定化を図る――。このようにして、自らがその影響をコントロールできるような解釈の枠組みを、眼前にひらける世界のあらゆる対象へと付与し、逆にそれでもコントロール不能なものはノイズとして排除する。だからこそ幾度か述べたように、「社会」は変えられないものとしてあっさりと思考停止の対象とされてしまうのである。自己啓発書が書店に居並び、その位置価を浮上させるような社会とは、このような感情的ハビトゥスが位置価を高め、また文化資本として流通するような社会だといえるのではないだろうか。
上司の言うことを理不尽に感じたり、女に生まれたばっかりに変な不利益を受けたとしても、しょうもない政府のせいで変な法律が成立したとしても、「誰かを恨むよりは自分が達観すべく、世界の思いなしようを変える」ことのほうがよりソフィスティケイテッドな身振りだなんて、どこかの誰かに言われたら? 

そりゃあ、何でも世の中のせいにして、不甲斐ない自分を甘やかすのは格好悪いし、そんなコドモの恨みつらみだけでは、いずれ壁に突き当たるのは確かだ。だからといって、 「すべては自分の心次第ですから、嘆かず恨まず自分自身の内面を磨くのみです」で全てを済ませてしまったら、それはそれで安易すぎる。「カエサルのものはカエサルに」みたいに、きちんと切り分けないとね。

自分の外に神様を想像することは、世間の掟にびくびくするのよりも、かなり潔い。人智を超えた存在の前に、すべての人間の最善は「それでも及ばない」というゴメンナサイを意識せざるを得なくて、だからこそ人間の作った掟に盲従することを相対化できるんだ。よく、「神に善悪を委ねたら自分は何も考えなくていいなんて、どこまで主体性がないんだよ」って言う人もいるけど、そういう設定を想像することによって、自分の責任=世の中に働きかけて変えなければ、という、誰のせいにもできない個々人に課せられた主体性が生じるかもしれない。

と、変に途中から何で「神様」みたいな突拍子もないワードを使うことによって却って混乱するじゃないか……というブーイングを予測しつつ、だってそれが近代史ってもんじゃないの? と、悪態つくわけです。突拍子もない概念ではあろうが、その補助線が便利だから、とりあえず使ってみてるの。自分の知性の頼りなさを確かめるために。

人間の作った決まりごとなんて、人間の不便にぶつかったら話し合って変えていくしかないし、そこんとこは真面目に喧嘩しなくちゃ。

そんでヨブは、神様相手にだって、そういう喧嘩を打って出たんぜ。

残念なことに、ヨブに向かって「売り言葉に買い言葉」した神様は、そうそう最近雄弁ではないから、「こんな世の中が義と言えるでしょうか」という喧嘩は、まあ人間どうしで何とかしなくちゃならないみたい。圧倒的な神の沈黙。応答しない無言の神に訴え続ける徒労。

だったら、微力ながらデモにでもいくし、変なこと考えてるクソ親父には投票しないから。それは微々たることでも、少なくとも「部屋を片付けたら人生が変わる」なんて殊勝なことは、思っちゃいないもんでね。

Yokohama View from "Rainbow Warrior"

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