杉山公園の近くの本屋で、『よつばと』の12巻を買った。最近では『聖おにいさん』も『もやしもん』も、『万祝』すら中途挫折してしまったのに、めずらしく読み続けているマンガ。もともとそんなにマンガには執着がないんだけど、よつばちゃんが可愛くて仕方ない。女子高生や女子小学生といった、穿ちようによっては違う需要があるような登場人物たちを見ても、ただただ可愛らしいなあとへらへらしている。
在宅で翻訳などやっている独り者の「とうちゃん」が育てている身の上不詳のもらい子と、隣家の女の子3姉妹や、街の大人たちが織り成す他愛もないのどかな毎日。自分がどういう視点でこのマンガを面白がっているのかよく分からなかったんだけど、多分とうちゃんと彼の幼馴染(?)たちとの子ども時代を引きずったままの付き合いが心地よいし、よつばちゃんとさまざまな年頃のお姉ちゃんたちの関係も「あー、わかるなあ」って感じだし、近所の大人たちと子どもたちの距離感の「適当さ」も、何となく気持ちいい。それぞれに、自分なりの感情移入ができてしまう不思議。子どもの世界の記憶と、今や独り者の大人になった自分が、友人の子どもに遊んでもらうときのリアリティと、両方の視線を行き来しているような。
世界に「親」と「先生」しか大人がいないと、子どもと大人の付き合いって、すごく硬直化してしまう。このマンガに出てくる大人は、誰もそういう型どおりの指導的役割を担う気がないようだから、心地いいんだよね。そういえば子どもの頃には、父の友人たちとか、子どものいない未婚の叔父や、親戚や近所の大きいお姉ちゃんとかは、口うるさい大人を演じる気構えもなくて、可笑しな遊びを考案したり、酔っ払って間抜けなことをしてくれたり、本当に無責任に遊んでくれた。親なら叱るようなことでも、面白がって見逃してくれたり。そんな夢のような時間が流れていた幸福を思い出す。
オタクの願望を描いたマンガだとかっていう評論もあるみたいだけど、そういう頑なな趣味のない自分から見ても、そうだよな、性差と年齢に伴う役割なんか無化したユートピアで遊んでいたいって欲望は、ありなんじゃないのかな、って思ったりする。がんじがらめに定められた家族や大人としての女性や男性っていう既存の役割なんて、どうせならナシにしたいよなあって、オタクじゃなくても、きっと誰でも夢見るよね。だってそれだけじゃ、息が詰まるんだもの。社会人、保護者、妻、受験生、児童、後期高齢者、嫁入り前の娘、非正規雇用者、ニート、エグゼクティブ、われわれ庶民、富裕層……それだけじゃ。
何にせよ、そんな属性だけでは、いつものびのび明るく生きていけない。
監視する大人も、管理する上司も、値踏みして品定めする異性もいない世界で、ずっと遊んでいたい。風花ちゃんとしまうーのおしゃべりも、女の自分は「萌え~」とかじゃなく単純に、「そうそう、意外と高校生の頃って、男の子なんか関係なく、こんな感じで女の子どうしで馬鹿な話してたよなー」って、昔を思い出してしまうー……のデス。であった。
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