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2012年4月27日金曜日

あなたが世界と呼ぶもの


怒鳴ったりして、ごめんなさい。
ずいぶん変な癇癪を起こしたものだと、後になってしょげている。
生身の人にではなく、直接に触れられない存在に向けた書き言葉が、こっそりと言い訳をするにはふさわしいような気がしている。

悩む人を目の前にして、他人ができることってなんだろう、といつも思う。たいていの場合、なにもないのだ。自分の苦しんでいることが、だれかに理解されるのであれば、人はそんなに悩んだりしない。
悩みというのは、その人が固有の存在として現に生きている在り様にかかわることだから、他人の経験則から出てくる助言なんて、結局はあんまり役に立たない。ひとり悩む人には、批判も助言も同情も共感も傍観も分析も慰撫も、ただ傷の痛みに塗り付けられる塩でしかない。「世界中のだれにも、私の悩みはわからない」、その孤独に、悩む人は涙を流す。
なにもできることがない他人は、せめて悩む人の空腹を満たそうと、カレーライスなんか作ってみる。悩む人は黙ってカレーライスを食べ終えると、壁に顔を向けて胎児の姿勢で眠った。時おり悪夢にうなされながら。

十七歳のときに、ひどく単純な事実にようやく気づいて、しばらくひとつの言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。「あなたは、私ではない」。そのとき、それは絶望のように思われたが、やたらと年齢を重ねたいまとなっては、その言葉はむしろ希望のように響く。
経験を代替することの不可能な、理解することの不可能な、そういう存在として、すべての人が生きていること。
自分の経験という限定がそれぞれに異なるからこそ、それを超え出る「われわれ」という連帯をあえて求めなくとも、自分とはまったく異なる他人の「ものの見方」に、ただ単純に救われることがある。私が私であることは、世界のほんの一部分を知っているだけのことにすぎないのだから。
いまは、そんなふうに思う。

あなたが世界と呼ぶもの、それが世界のすべてではない。
言葉は、個人的な経験どうしの間をつなぐために、本来は固有の事象を、とりあえず共有できる概念へと一般化するものだ。だけど、ひとつひとつの言葉にはいろいろな出自があって、言葉を使うひとの都合によって、いろいろな意味が背負わされている。気をつけないと、言葉は、だれかの都合を狡猾にあなたに押し付けて、世界をあなたが生きられない世界に変えてしまう。
あなたが世界と呼ぶものを、あなたの生きられる世界にするために、もういちど、ひとつひとつの言葉を、確かめてみなければならない。「世界」とか、「仕事」とか、「成長」とか、そういう言葉のひとつひとつが、自分固有の在り方と外界とのかかわりに、どのような意味を結んでいるのか。自分の思考をがんじがらめにする「お節介なだれかの物言い」に、知らずに閉じ込められてはいないか。

私が世界と呼ぶもの、それが世界のすべてではない。
私とあなたの間には、ただ言葉だけがある。そして、言葉は私のものでも、あなたのものでもない。だれの占有物でもないが、一回的な生の固有性が衝突する現場で、どうにかして、共有の方法を作り上げていくものなのだろう。

そんな話をしたかったが、うまくいかなかった。

怒鳴ったりして、ごめん。
あなたに届く言葉が見つけられずに、仕方なく無駄な祈りの言葉を、虚空に撒き散らすだけ。
どうかあなたの悩みが、終わりますように。
どうか世界が、あなたの生きられる場所になりますように。

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