しかし、そういうふうに思い始めたのは、たかがここ数年のことで、「好きは好き、嫌いは嫌い」でなにが悪いの?と、ずっと思っていた。なにかを語る際に、知識の蓄積の多寡が問われるなんて、悪趣味なことだと思っていたのです。それは、実際に自分で文章を書いたり絵を描いたりするのが大好きな無邪気な若者の態度としては、まあ、そんなに間違ってはいなかったと思う。
とはいえ、大した分別はつかないながらも四十も超える年齢に至って、ネット上でだれでもが「自分の好きなもの」について好きに語るような時代に直面してみると、同じひとつの作品に対する単なる感想文と、そのジャンルのコンテクストに精通し、そこでなにが問題になっているかを問うているような専門家の批評との違いに、ようやく気づいた。
だから、「すてきでしたー」「おもしろかったですー」みたいな個人的な感想は、少なくとも文字にしてアカの他人に読ませるほどの価値はないって思う。。。んだよね。
。。。と、長々と言い訳を連ねたあげく、結局は誘惑に抗えず、映画館を出たあとの喫茶店で友だちと話し込むような無邪気な感想を記してみたくなったのが、今日見た「Pina」というヴェンダースの映画。
「3Dってマジかよ、なんで?」と、チケット買いながら私。
「意外とヴェンダースって、そういうの好きなんじゃないの」と友人。
眼鏡の上から変な眼鏡(レンタル代100円です)をかけて、娯楽映画の予告編から岩石が飛んできたり大トカゲが牙を剥いたりするのを避けながら、「わー、万博みてえ!」と苦笑してた(あ、ちなみに、茨城県出身の1968年生まれにとっての万博は、筑波学園都市の科学万博です)。
本編が始まる。とくに何の変哲もない街の遠景は3Dなんだけど、意味不明だった。しばらくして、列を成し、静かに微笑んで、子どもの手遊びのような動作で踊る人たち。シフォンのカーテンがふうわりと揺れる向こうから歩いてくるとき、わー、本当に3Dがやりたかったんだね、とうれしくなった。
時折、視界が揺らいで、夢のなかみたいに不安定な映像になる。嘘くさい3Dの画面は、からくり細工が仕込まれた人形用の小さな舞台や、カレイドスコープの鏡張りを覗き込むような非現実感がある。目の見えないお母さんのために、視覚の記憶を映写する装置を作った(うろ覚え)あの話、あれだったんだなあ、と。
で、ピナ・バウシュ、私はまったくの初見。
機械的に反復しながらぐらぐらと崩れていく。叙情的なのに、陰湿じゃなくて。
官能の破滅的な暴力性への恐怖とか、明るく押し殺す不安な痛みとか。
たぶん男の人が知らないこと。でも、それを告発するのではなく、そういう痛みを踊ること。
「子どものころにこれを見てたら、バレエをやってたね。団員になろうって思ったわね」と言ったら、友人は「え?」って笑ってた。
外側から意味づけられる「美」に、値踏みされて生きていくのは、つらい。
ましてこの国では、その基準はとても商業化に成功さえしていて、あたかも自明のものであるかのように流通していることが多いよね。
だから、よかったな。
この映画を観て、諸々の重力に絡め取られた身体が、ちっとは軽くなるような気がしたさ。
「ふん おしっこくらい ひとりでいけます。」
「田辺のつる」高野文子『絶対安全剃刀』(1982年、白泉社)
追記:ヴェンダースのインタビューなどいくつか読んだ。批評は、なかなかピンとくるものがまだ見つからない。インタビューのリンクをひとつ、追加します。
返信削除「気がついたら身を乗り出して、五分後には赤ん坊みたいにわんわん泣いていたんです。最後まで泣いていました。」「私は絶望的に、救いようもない気持ちで、何が起こったのかもわかりませんでした。雷に打たれたようでした。」
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