むかしむかし、あるところに……という前置きの言葉は、けっして現実には起こらない架空の出来事を約束しているんだろうか。
Once upon a
timeのonceは過去を示す意のonceで、「一度きりの」って意味ではない。だから、Twice upon a timeとか、そういうアレンジはありえないんだろうけど。
でもたとえば、もしも裏の畑でポチがわんわんと鳴いていたら、やっぱりちょっと、一応は鍬で掘ってみたくなりませんか。お地蔵さんに雪が積もっているのに自分が編み笠を持っていなかったら、なんだか申し訳ない気持ちには、なりませんかね。
ヒキガエルにキスをするのは難しいけど、ひょっとしたら王子様かもしれないので、井の頭公園の遊歩道で出くわしても、失礼がないよう「ぎゃー」とか騒がずに、上品に会釈をして通るように気をつけよう。
1月17日、変な時間に目が覚めて、Twitterにこんな走り書きをした。
これから文字で書く架空の土地にすら、放射性降下物は降り注いでしまった。幸せな結末を迎えるはずの物語にも、あまねく。[05:45:07]/汚染されていない楽園のような場所を、虚構の中にすら探すのは難しい。[05:48:11]/いったい、どんな物語を作ることができるか、とにかくこれから日本語で文字を書くすべての人は、そういう問いを抱えて生きていくことになる。[05:50:51]/戦争で頭の上に爆弾を落とされたりしたことがないので、今までそういう、大文字で記されるような出来事に実感がなかった。物語は、いかようにでも現実から自由である、そんなふうに思っていた。しかしもはや、そんな物語を作れる力は、少なくとも私にはないような気がする。[06:01:55]/そしてさらにややこしいのは、例えば東京大空襲では東京にいる人すべての頭上に爆弾が降ってきたわけだけど、フォールアウトは個々の物語にとっては、そういう共通体験になりえないこと。地域差と、考えの違いによって。[06:08:31]/そう、出来事や主題や事実でもない。それをなんと呼ぶべきか。。[06:12:44]/だから忘れることはできないし、なかったかのようには生きられない。[06:14:13]/たぶん、そういうふうに自分の外側にある何かではなく、私が生きていることそのものが、その制約から自由ではないのだと思う。大航海時代のイギリスではなく、今の東京に生きているという、そんな制約。[06:26:05]
子どものころ。仕事に行く父を送り出し、朝食の片付けを終えた祖母と母は、「さて、お茶にしましょう」と食卓に戻る。女二人でおしゃべりしながら、NHKの朝の連続ドラマを見るのだ。「今週はそろそろ終戦かしら」「そうね、先週に大空襲があったからね」。
そのころの連続ドラマは、たいていが「昭和をたくましく生き抜いて幸せになる女の物語」だったから、お茶の間で毎回そんなシュールな会話が交わされていたのを、戦後生まれの孫/娘は、なんだか可笑しな光景として覚えている。
ドラマの中であれ、食卓に座る家族であれ、現在を生きている大人の物語には必ず「戦時中」があって、ああだこうだとそのころの物語を聞かされるのが、子どもの役回りだった(とくに8月15日近辺には)。
しかしそれは、やっぱり自分の物語ではなかったのだ。
17年前の1月17日、煙を上げてくすぶる瓦礫の街は、テレビの中にあっただけだ。大阪に住む学生だった弟に「ボランティアに行かないの?
神戸は近いし、暇な時間があるでしょう?」と電話で告げたら、ひどい剣幕で叱られた。
「関東にいて、何も本当の状況を知らないくせに。勝手なことを言うな。みんな必死なんだ、こっちは」。
結局、去年あの地震と事故に出遭うまで私は、「あの日以前/以後」という痕跡とともに生きることの意味を、まったく想像できなかったんだと思う。いまだって、あの日に東京にいて、いまもここに留まり続けるという固有性に、閉じ込められたままの貧しい想像力しか持っていないんだけどね。
チューリップや百合が真夜中に舞踏会をしたり、大きな桃が流れてきたり、雁がかけた橋を渡ったり、空からフワフワしたおやつが降ってきたり、蟻に食べられてしまった赤ん坊のために母親が泣いたり、雪でこしらえた女の子が焚き火を飛び越えたり、跳ね踊る足跡に黄金を残す鹿が男の子を助けたり、いつか王子様がやって来たり、野鼠が大きなホットケーキを焼いたり、そういう夢物語が大好きだ。
あの日を境に、自分で汚してしまった地面の上に、いったいどんな物語を作れるのか。
逃げるためではなく、忘れるためではない、それでも未来を夢みるための物語は。
いまはまだ、わからないです。
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