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2011年11月9日水曜日

誤読してるロマンティシズム


東京都写真美術館から電話がきて、再入荷待ちの注文をしていたジョセフ・クーデルカの写真展図録が、結局、増刷見送りになったと告げられた。

仕事を辞めた7月の平日だったか、この写真展に独りで行ってきた。

上の画像集は会場でも大きなスクリーンで上映されていたもので、「Magnum photos」のサイトで公開されている(これはHTMLがよく分からない私が不器用にトリミングしたものですが、上記リンクではちゃんとした大きさで見られます)。控えめな音量でループする銃声をスクリーンから浴びながら、希望と悲嘆が目まぐるしく入り混じる写真に向き合う。



面白がって遊び回っているうちに時間が過ぎてしまう美術展などとは違って、何かの出来事を記録した写真を展示で見るときは、やたらと難しい顔をして立ち止まらなければいけないような、居心地の悪さを持て余すことが多い。とくに印画紙の中で、大変な事態が起きていたりすると、絶対に安全な場所からそれを眺めることは、何だか後ろめたい気落ちになる。だから、改めてこっそり図録を見たかったんだけどね。日本語版でなければ、何らか入手できるでしょう。

1968年の夏にプラハで起きた事件を記録した写真が、2011年の東京で、空調の効いたおしゃれな建物に飾られている。ちょうどその年に生まれた私は、冴えない43歳のおばさんになった。一度も行ったことのない国の、一度も会ったことのない人たちがかつて見た夢の残骸の前に、所在なく立っている。



今から20年ぐらい前に、駅前のスーパーの自転車置場でやっていた古本市で『戦車と自由:チェコスロバキア事件資料集』(みすず書房)第2巻を500円で買った。古本市といっても、100円均一で雑多な文庫本やマンガをただワゴンに並べたような、中途半端なアレです。夕飯用のネギだの豚肉だのを買いに行ったついでに、特段の理由もなく手にしただけで、いわゆる「プラハの春」について、事前の関心や知識があった訳ではない。

当時はとにかく暇だった。家に帰って、適当に畳に寝転んでこの端本を読み始めたら、あとはネギも豚肉も放ったらかしに、引き込まれていったように思います。



『戦車と自由』全2巻は196811月~12月に刊行されている。

それによれば、硬直した教条主義的な体制への批判・抵抗運動が学生や作家たちによって活発化したのは、1967年ころかららしい。やがてそのムーブメントは、体制そのものの変革による「人間の顔をした社会主義」という政策転換へと結びついていく。市民参加による討議の場や言論の自由を打ち立てようと訴える「二千語宣言」が発表されたのが1968627日、このあたりまでの流れが、「プラハの春」とか「民主化ルネサンス」とか呼ばれている。

ところが、この動向を危険視したソヴィエト軍がチェコスロバキアに侵入し、党本部などを占拠したのは同年821日。『戦車と自由』には、当時まだソヴィエト軍による占領が続いていたチェコスロバキアの9月までの事件推移に沿って、民主化運動に関わる主要な文書や、占領下で市民たちのメディアが伝えたことや、一連の出来事に対する各国の反応などが収載されている。



まず感心したのは、この目まぐるしい展開からさほど間を置かずに、日本語訳された大部の資料が出版されたということ。当時の情報環境を勘案すると、相当の速報性があったのではないかと感じてしまう。そのときプラハで起こっていた事象に対して、日本でもそれだけの関心があったということなんだろうか。



それより何より、私がこの本が好きな理由は、占領下の街での市民による地下放送の内容や、人びとの間で流行していたジョーク、愛唱された詩、そして街中に貼られた手づくりの壁新聞や落書きまでが収載されていることだ。

それを見ていると、「プラハの春」は、政治家だけが決めた体制の方向修正なんかじゃなく、長い間絶望して黙っていた普通の人たちが、自分たちの生きやすい暮らしのために声を上げ、自分たちの生きる国を変えようとした運動だったんじゃないか、って思ってしまう。

せっかく自分たちの手で作りかけた国に、「友人」が戦車で乗り込んできたとき、男たちは街中の街路名の表示を取り外し、モスクワを指し示す矢印だけを落書きした。道路標識にペイントして、「戦車侵入禁止」の標識を作った。おばあさんは、砲台に座る若い兵士に、「なぜ私たちに銃を向けるの?」と語りかけた。



もともと報道カメラマンではなく、アーティスティックな写真家だったらしいクーデルカは、そのような市民のひとりとして、自分のいま生きている場所で、ともに生きようとする人びとの姿を記録したんじゃないかな。



プラハの人たちが辿り着いた春は、結局のところまた長い冬に閉ざされてしまったし、それにあの国で本当のところ何があったのかさえ、私には分からないのかもしれないけど。



それでも、2011年の東京で彼の写真を見ることは、何か特別なことのように思えてしまった。


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