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2020年3月13日金曜日

鳥のいざなう方へ



ある日馴染みのない町をぶらぶらしていて、感じのいい古本屋を見つけた。そういう時はとりあえず入口に並ぶ廉価本でも何か1冊手にして、店の中を覗いてみるのが癖になっている。友人が一緒だったので中をじっくり見分する時間はなかったが、店頭の棚に初山滋の絵本があったので、買って帰ることにした。自分の世代ではあまりピンとこないが、祖母が好きだった挿絵画家だ。その程度の浅い縁でも、とにかく本屋で何か買いたいという衝動が起きたときには口実になる。きれいにビニールでパックしてあったので中身は見なかった。

帰宅して夕飯後に、そういえば今日は絵本を買ったんだよな……と、かわいらしい淡い色彩で描かれた小鹿の表紙をようやく開いてみた。「キンダーおはなしえほん傑作選」だから、せいぜい幼稚園の年長さん向けかなと、一杯機嫌のまま気楽に読み始めたのだけど。

そのようにして、心の準備も何もない状態で、熱くて冷たい激しい言葉に出会った。知らない詩人だった。まったく油断していた。

詩:吉田一穂/絵:初山滋『ひばりはそらに』
フレーベル館2007年発行(1969年キンダーおはなしえほん6月号初出)

有名な詩人らしい。松岡正剛の千夜千冊などにも記事があった。この人の本業の詩に分け入っていく勇気はいまはない。『ひばりはそらに』の話をしよう。

◆◇◆

かわいらしい希望の物語を予感させる最初の見開き。あっけらかんと伸びやかにスキップする半袖の女の子は、主人公の小鹿に自らを重ねられる小さな読者の姿を物語のはじまりに描いたのだろうか。足取り軽い小鹿と歩を揃えて、虹の掛かる空を見上げている。

むねを はって 、こえ たかく
うたいながら いこう!
そらには、にじが かかっていた。

「ひばりのおちるほうへいこう」と小鹿は歩き始める。「ろばさん あおくさ、さがしに いかないか」と旅に誘うが、「はたらく ろばに かいばが あるよ」と、小鹿の誘いは実にあっさりと拒まれた。歩を進めるにつれて、同じ静かな拒絶ばかりが続く。

町に行くのだと汽車に乗る豚、豚が喜々として向かった町ではハムやソーセージが市場に並び、ニワトリが自らの卵を売っている。ロバはパンを作り、オウムは自分の声を忘れて人まねする。どの動物も小鹿の道連れになることはない。

繰り返しの描写を経るうちに、穏やかに満ち足りたけものたちの背景に、何かが隠蔽されている不安が高まる。虹や「ひばりのなくそら」がいざなう自由へと向かうはずの小鹿は、その旅路でただ「ひとにかわれたとりやけもの」の不自由に出会った。彼らの素朴な平和は、他者の支配する世界に受動的に安住し、自らの不自由に鈍感であることによって保たれているものだった。その危うさに付きまとう不穏な気配は、ページを繰るごとに小鹿と読者の前にひたひたと忍び寄り、ついには「たかのはねのついたや」に射られて落ちる鷹の登場によって、破綻を決定的に露わにする。

街はもはや目指すべき場所ではなくなった。森への退却を経て「むねを どきどきさせて たにまへ にげこんだ」小鹿は、谷底でふと躓いた貝殻をそのまま蹄で掘り出した。「おや? こんな ところに かいがらが」と訝しがる小鹿に、貝殻は海の美しさを歌い始める。谷底がかつて海だったと貝殻に告げられた小鹿は、山に登って海を眺めた。

「あっ あれだ! うみは。くもを かぶった やまの むこうに みえる、あおいのが うみだ。きらきら ひかって、まるで におうようだ!」

小鹿の声に誘われて出てきた雷鳥は、海の向こうに「ひろい ひろい くに」があることを教え、「ながい あしと つよい つのを もっている きみが、なにを おそれる ことが あろう。わたしたちの おやたちだって、いちどは みんな、うみを こえてきたのです」と、小鹿に新しい希望を伝えた。

小鹿は海を目指した。もう旅の道連れは当てにしない。ただ一人で、「ひばりの あがる そらの もと」を目指して川を下っていく。ついにたどり着いた海の、磯の匂いと海風、波の音。塩辛い水。海のかなたに霞む紫色の山を見て、「どうして うみを わたろうか!」と決意する小鹿。

苦労して海を渡った小鹿は、どんな希望の地に上陸したと思いますか。

花咲き青草が輝く野を期待して最後のページをめくると、意外な景色が待っていた。茨に覆われた「ひとの けむりも たたない あれち」。しかし、鮭が川を遡るその地に誇らしく鹿は降り立つ。その地の空に高く上がるひばりを描いて、物語は終わる。

◆◇◆

自由とは……と思う。吉田一穂の問いかけは厳しい。ひばりの舞う空を目指したいとは思わないのか。所与の世界を疑わずして、そこから一人で旅立つ勇気なくして、憧れているだけでは、目指す高みにたどり着けない。しかし青年の足は強いはずだ。いつか道を示してくれる友とも出会い、また君が友を助ける日も来るだろう。君の理想を疑う者は置いていけ。軽々と訣別せよ。それが自由を目指す旅なのだ、と。

たぶん世の中には、きわめて大雑把に分類すると、ひばりの高く上る空に憧れる人間と、そんなことは頓着しない人間がいると思う。後者の生き方のほうが賢くて、経済的にも社会的にも成功するんだろう。これから育っていく小さな人間に、大人は何を伝えたらいいのか。それはやはり、ひばりの鳴く空への憧れを胸に抱えて、海をも渡っていく勇気のほうだと自分は思う。だから、博士や大臣なんていう安っぽい「将来の希望」などではなく、ただ一人で荒地へとたどり着く旅へといざなうこの詩は、やっぱり「希望」の物語である。厳しい旅だが、辛くはないよ。わくわくする楽しい冒険なんだから。初山滋の絵は、最初から最後まで優しい。

坂口安吾は「空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。」と書いた。まったくそうだ、と思う。「ひばりの おちる ほうへ」行きたいと思わない人間とも、私は話をしたくない。いや、自分ももう年だから、なかなかそうはいかなくて……という現実も分かるんだけど、せめて未来のある子どもには、混じり気なしの、そういうきらきらした希望を語りたいよね、って思うのだ。

というわけで、ページを閉じた後の余韻ったら、もうね。油断しててこういう本に出逢うと、呆然としてしまうのよ。

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